人の業(ごう)

僕も含めて、生きているということ自体
誰かに、或いは、何かの生き物の犠牲の上に生きている

例えば、あるビジネスで成功して、

 

たくさん稼ぐことができたのなら

 

その影にはかならず負け組がいる


そうした負け組の上に

 

成功者は生きているに過ぎない。

僕がこんな半身不随という障害者でも


ある程度、生きていられるのは


この日本という国が先進国であり、


その事による様々な最先端の医療技術力や


先進国としての福祉政策の恩恵に


あやかることができているからだと思っている


でも、その影には未だにインフラも1


まともに整っていない日本などの先進国に

(様々な意味で搾取されている)発展途上国の犠牲の上に成り立っている


日本に偶然にも生まれた事でこんな障害者でも生きていられるのではないのか。

 

このようなことは僕のような障害者だけではなく

 

普通に生きている。健常者でも同じことだ。

 

この平和ボケするような日本の中で、

 

毎日くだらないバラエティー番組を見ていられるのも

 

前述のような発展途上国の犠牲の上にあぐらをかいているに過ぎない

 

ということを重く感じなければいけないのではないだろうか

すべての人間はそのような誰か、

 

あるいは何かの生命の犠牲の上にしか


生きることができないのではないか

これを仏教では、業(ごう)というらしい

 


人間はどんなに素晴らしいと言われる人であっても、

 

何らかの業(ごう)を背負っているのではないか

だとしたら、自分がどんなに成功したとしても、

 

このような業(ごう)を背負っていることを

 

人間は生きている限り、絶対に忘れてはいけないのではないだろうか

ただ、生きているだけでも、

 

何かの生命を食らって生きてしか生きていけないのが

 

悲しいかな、人間だ。

 

障害者という、いわゆるマイノリティーな立場に

 

いつの間にか、ある日突然なってしまった僕はそんなことを思うのだ。