なぜ死んではいけないのか。なぜ生きることが大切なのか

何気なく岡田斗司夫さんの「悩みのるつぼ」というサイトに

「どうして人は死んではいけないのか?」という質問と回答のページを見つけた


以下のURLだけど、内容をそのまま抜粋しよう

http://blog.freeex.jp/archives/51375852.html

----ここから---

「悩みのるつぼ」、今回はどうして人は死んではいけないのかずっと考えてきた18歳の女性から相談です。

「生きたくても生きられない人がいるのに贅沢よ」と言われても、自分の生死は人と比べる問題?と思います。
「死ぬ気になれば何だってできる!」と励まされても、死ぬ気になったら死ぬことしかできないと私は思います。

 なぜ死んではいけないのでしょうか。


***************************** 相談 ******************************


 18歳の女性です。どうして人は死んではいけないのですか。ずっと考えてきました。

 「自殺はだめだ」といいますが、なぜだめなのかを語る人はあまりいません。
 周りの人が悲しむからですか。それなら、家族も友人もいない孤独な人は死んでもよいのでしょうか。

 私は、机に死ねと書かれたり、教科書を捨てられたり、メガネを折り曲げられたり……といじめを受けたことがあります。
「デブで2倍の面積取るんだから学費2倍払えよ」とも言われました。
 毎日「今日はどんなことをされるんだろう」と考えて胸がナイフでえぐられるように痛み、一日が終わり「今日はイヤなことは2つだけ、まだマシなほうだな」と思い、床につきます。
 そんな日々で、死ぬ恐怖より生きる恐怖が上回り、死ぬことを真剣に考えました。

 ビルから飛び降りようともしましたが、勇気がなく、とぼとぼと家に帰りました。
 今はそれなりに立ち直っていますが、死にたい人の気持ちが分からんわけではないのです。
「生きたくても生きられない人がいるのに贅沢よ」と言われても、自分の生死は人と比べる問題?と思います。
「死ぬ気になれば何だってできる!」と励まされても、死ぬ気になったら死ぬことしかできないと私は思います。

 なぜ死んではいけないのでしょうか。
 答えはない問いなのかもしれませんが、ご意見を伺いたいです。


***************************** 回答******************************


 私には「死にたい」と思った経験がありません。
 でも自分が犠牲になれば十~百人程度の人が助かる、という確証があれば「じゃあ仕方ない。死ぬかぁ」とイヤイヤながら決心すると思います。
 その時に「死んじゃダメ!」って止められても「私の命だから、どう使おうと私の勝手」と答えるでしょう。

 この例を「犠牲死」と呼びましょう。犠牲死をダメという人はあんがい少ない。「ひとりの命を犠牲にしても守るべきものがある。それはより多くの、または幼い命だ」という主張であり、死ぬことによって逆に「命の尊さ」を訴えるからです。
 残された人たちも「この世界は生きるに価する,素晴らしい世界だ」と思えるので、死んだ人間やその家族・関係者以外はみんなハッピーになれる、「ベストじゃないけど、ベターな回答」です。

 でも、あなたが本当に聞きたいのは犠牲死ではなく自殺です。
 

 だから社会は自殺を許してはいけない。自殺したいほど辛い人には本当に申し訳ないけど、それを許すと社会の基盤が狂ってしまう。日常までが呪われてしまうから。

 これが私の答えです。
「死にたい」と真剣に悩んだことのない私には、以上のような「論理的な回答」が限度です。

 でも、あなたは自殺したいと毎日思うような日々を生き抜きました。私よりも、ずっと突き詰めた言葉が出せるはず。
 あなたにはその問いに答える権利がある。きっとあなたの言葉なら、私より多くの命を救える。

 ここから先はあなたの担当です。「それでも生きてるのが辛い。死んでもいいでしょ?」という問いに答えられるのは、あなたです。
 私からのバトン、受け取ってください。
 これから生涯考え、答えてあげてください。


2013年3月16日 朝日新聞掲載「悩みのるつぼより」

------ここまで-----


確かに難しい問題だと思う。

死んではいけない

生きることが大切だ


と言う人はごまんといるけれど


では

なぜ死んではいけないのか。

なぜ生きることが大切なのか

を的確に答えてくれた人を

(少なくとも僕は)見たことも聞いたこともない


この岡田斗司夫さんの回答でも僕は納得ができない

僕自身、脳出血で半身不随になり、何もかも失い

もう何度も死にたいと思った経験者だからだ。


岡田斗司夫さんの回答では以下のように言っている

自殺とは「この世の中に生きる意味や価値がない」

ということを、私の命を投げ捨てることで証明してやろう」という主張です。

 なので

死ぬことによって「世界の無意味さ」を訴えてしまう。

こんなことされたら、生き残った側の人はすっごく迷惑です。

「いや、この世は生きる価値があるんだ」と反論したくても、

相手はもう死んじゃってるんですから、

とんでもなく気まずい気分がいつまでも晴れません。

自分とは縁もゆかりもない人が自殺した時に感じる不安や不快感の本質は、

この「究極のノーサイン」です。

自殺とは、残された人全員にとっては「呪い」なんです。


つまり、死にたくない人、僕なりの理解では「まだ死が怖い人」にとって

「迷惑」だ

そして

生きている人にとって「呪い」


だから

ということのようだ・・


でも

僕は違う答えを自分なりに持っている

死にたいと思っている人にとって

「この世の中に生きる意味や価値がない」のだと思う

かつての僕がそうだったから・・



半身不随になった僕はしばらくこの世の中に生きる意味や価値を見出すことはできなかった

なぜなら、健常者なら、必死で頑張って這い上がって、


もう一度「成功?」又は「復帰?」できたなら

一般的に憧れるような贅沢(世界のリゾートを回ったり、プール付きの大邸宅を建てたり等々)

をしようということがインセンティブになるであろう。

でも

僕はたとえ万が一経済的成功をして贅沢
(世界のリゾートを回ったり、プール付きの大邸宅を建てたり等々)

ができたとしても、


そこで楽しむことさえできない身体なのだ

身体は不自由なまま・・トイレでトイレットぺ―パーを切ることさえ苦労する
(実際、今でも公衆トイレでトイレットぺ―パーを「片手で」切るときには悪戦苦闘する)

ことには何の変わりもない


痛みも疼痛も死ぬまで続くだろう



だとしたら、

僕にとって経済的(経済的でなくても良いが)「成功」に何の意味があるのか?

どうやっての世の中に生きる意味や価値を見出せばよいのか全くわからなかった

当時の僕は生きる事は「苦」以外のなにものでもなかった


そんな

「生きる事は「苦」以外のなにものでもない」と感じている人に対して

或いは

「この世の中に生きる意味や価値を見出すことができない」と感じている人に対して


そういうことを考えたこともない

「ある意味この世の中に何らかの生きる意味や価値見いだせている」人が


「迷惑」だ


ということで苦しみながら「生きさせる権利」はあるのだろうか

それはまるで

拷問うをうけさせながら、それでも生きろと

言っているようなものだと思える。


そういう人にとっては「死は怖いもの」ではないと思う

僕がそうであるように・・

(僕の場合)死は障害者として「生きる苦」からの解放に他ならない

だから、僕ににとっても少なくとも「死は怖いもの」ではなくなっている。

年末久々に会った旧知の友人が僕に言った以下の言葉がそれを象徴しているように思う

「俺はお前が羨ましい、、俺はまだ死が怖い、人間いつかは死ぬ・・だから俺は怖い、

でもお前は死を受け入れることができている」


僕が死が怖くないのは


障害者になって5年、「死ぬことより苦しい生きる」というものを実感したからだ


もちろん僕だって死んだ経験があるわけでもないので

僕の体験が死のの苦しみより辛いのかどうかなんてわからない。


でも少なくとも「この世の中に生きる意味や価値を見出すことができない」期間があり、

死にたい

死にたい

と言ってたことは事実で、



そのときに健常者で「ある意味この世の中に何らかの生きる意味や価値見いだせている」人から

何を言われても

「お前にこの苦しみから俺を逃れさせない権利はあるのか?」

と思ったことは確かだ。

だから

今の僕は

死にたいと苦しんでいる人に

簡単に

死んではいけないのとか。

生きることが大切だ

とか言うことはできない


結局、死にたいと思う人と

そんなことを考えたこともない人とは

永遠に相入れないだけなのかもしれない



















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