自我なんて余計なものかなり消えたかも・・

さっき・・

風呂に入るのに

家内にバスタオルをくれと言った

2階にあったので取りに来いとのこと

そして取りにいった

そして2階から階段を降りるとき

僕は何気なくそのバスタオルを口にくわえながら

降りていた

僕は階段を降りるとき(昇るときも)手摺りを持たないと昇降できない

だから健常な右手で手摺りを持つ

おのずと麻痺した左手しかない状態になるので

何かを持って階段の昇降はできない

でもいまさっきやってのけた

バスタオルを口にくわえながら・・

よく考えると

今、僕の口はかなり左手代わりになっている

そういえば、服を脱ぐときも右腕を袖から抜くときも

口で右袖をくわえて抜いている

半身麻痺に成った当初、リハビリ病院の療法士さんに

何かのおりに「まだ口を使うのは悔しいでしょうね」

と言われたことを思い出した

悔しい・・?

そうだ!

今、口を使うことに

「悔しい」とか「恥ずかしい」という


感情がほとんどない



よく考えると

この「悔しい」とか「恥ずかしい」という感情こそが

「自我」がある証拠ではないか



「自我」などというものさえなければ

「悔しい」とも「悲しい」とも思わずに

必要とあれば口だって使えるのだ


もちろん口でくわえるから多少の唾液は付着する

それが「イヤだ」「汚らしい」と感じるのも

「自我」の影響ではないか

「イヤだ」「汚らしい」と感じたからといって

身体のどこかが痛いわけでもないではない!

「悔しい」「悲しい」と感じても同じこと

身体のどこかが痛いわけでもない!

僕はこの5年間1年365日ずっと痛みと痺れを感じ続けてきた

5年といえば、365日×24時間×5年=4万3800時間

ずっと痛みと痺れを感じ続けてきたわけだ

その痺れという苦痛も尋常ではなかった

左半身の薄皮を一枚剥ぎ取られ、

団扇で風を吹かれているような拷問のような痛さである

それにくらべれば

「悔しい」「悲しい」「汚らしい」「悔しい」「恥ずかしい」

という感情なんて「苦痛」でも何でもない

心「自我」で勝手に感じている実体のないもの

侮辱、屈辱などに対する怒りも挫折などの悲しみも

実際には慎身体的には痛くも痒くもないではないか

「自我」があるとそんなものに振り回されるのだ

「自我」なんていうもんさえなければ

怒りにも悲しみにもふりまわされず

やるべきことに最も効果的且つ効率的な方法や行動を

余計なこだわりや羞恥に邪魔されずできるではないか

いつのまにかバスタオルを口にくわえていた自分を見て

自分もやっと自我なんていう余計なものが

かなり消えたか知れない

そう感じた

もしそうだとすれば、

これから少しは楽に

生きることができるかもしれない