死への準備

正月早々「死」などという言葉を使うとは

縁起が悪いというかもしれないけれど

僕はあえて死を意識したいと思う


5年前、脳出血にみまわれたとき

既に僕は死んでいてもおかしくなかった

そして幸運?にも

5年後の今日も僕は生きている

だがしかし

今も僕は死に向かって

歩み続けていることには変わりない

自然の理(ことわり)がある限り

人間はいつかは必ず死ぬ

そしてそれは誰にも避けることはできない

もし時計が円を回るような形でなく、

横軸に時間があり(右に行くほど)時間が経過する)

針がその横軸を右に向かって動いていくという

ような形式で

その右の端が自分の死の時刻

というような時計だったとしたら

正月が来たことを祝う気にはなれないであろう

なぜなら、その時計を見れば

毎年正月を迎えるということは

自分の死の時刻に向かって

刻一刻と近づいている

ということであるということを

否が応でも意識せざる得なくなり

誰も正月を祝う気にはなれないだろう

(その意味で一休の言ったことは正しい)

でも大切なことは

迫り来る逃れられない死を

恐れることよりも

その死の準備ができていないこと

を最も恐れるべきではないか


死の準備とは

「最期のとき」に

自分の人生は納得できた人生かどうか

自分の人生は納得できるとは

たとえ自分の目標や志や

やりたかった事を

成し遂げることを

できなかったとしても


そして後悔もあったとしても

人間は「不完全」である以上
後悔なんて誰にでもあるものだから
後悔はあっても仕方がない


だから、

たとえ後悔はあっても

たとえ(志し半ばで) 「無念」であっても

自分なりに

精一杯生きた人生だったな

そして手抜きのない人生だったな

と思えるようにすることが

「死の準備」ではないだろうかと思う

つまり

たとえ「不完全」であっても

その日その日を

手抜きなく精一杯生きることだと思う