僕の智慧

知恵と智慧・・

これは僕なりの解釈であり、そして自分のための解釈である

人間生きていると様々な「理不尽」に出会う。

例えば、人間社会・・社会全般であったり、会社組織であったり、

或いは家庭という最小単位の人間関係の中で生きているで、

義務を果たさない人がいたとする。

そんなとき、、

自分が代わりに(何かの問題の解決のため)その義務をしなればならなくなったとき、

普通人は憤りを感じるものだ

でも

どんなときでも自己犠牲の覚悟を持ってすれば

何事にも怒りも悲しみも憎しみも覚えない

なぜなら、「自分を捨てる」ことができているから、

そこには自我は存在しなくなるから・・

どんな事にも動じず、

冷静に対処することができる。

人間が苦しみ、迷い、動揺するのは

自我の存在と自己保護の本能や

それは何というか自尊心とでもいうのか

「こだわり」とでも言えばよいのだろうか

そういうもの(たぶん自我)があるから

人は人を憎む

上述のような場合、義務を果たさない人に対して憎しみの気持ちを持ってしまう

そして復讐心から損人に対して、報復や敵対してしまおうとするのものだ

でも(自我)を捨て去ってしまえば

怖いものはない、

恐れることも、


悲しむことも、

人うを憎むこともない、

要はその問題が解決できれば良いのだ

義務を果たさない人がいれば、代わりに自分がやればよい

自分が我慢することで解決するのであれば、我慢すれば良い

いわゆる「泥をかぶる」といううような事かもしれない

そんな「自己犠牲」を「犠牲」と感じるから憎しみの気持ちを持ってしまうのだ。

それは決し「犠牲」なんかではない

「犠牲」とは命と引き換えにすることだ

「憎しみ」や「怒り」と言ったものは単なる人の心の動きでしかない

自分の自尊心やこだわりという(自我)から生まれるものに過ぎない

捨てようと思えば捨てられるものだ。

だったらそんなもの捨ててしまえば良い

そのことで問題が解決きるならば・・

こんな考えは他人にいいように利用されるだけ・・

と言われるかも知れないけれど

僕はそうは思わない

利用されるなら利用されればそれども良い

それで問題が解決できるならば・・それは本望である

生き方に決して恥じることはないと思う

自分が労することで問題が解決できるならば

いくらで労すれば良い

そういう判断こそが智慧ではないだろうか

簡単に言うと

「知恵」は「アイデア」だけれども

智慧」とはアイデアを実行する際の行動哲学が合わさったものだと思う

こんなことを考えたのも今の自分の障害というハンディが原因で起こった

様々な許されない事象を目の当たりにして

最近感じる・・



今の僕にとって一番大切なことは

自分が健健常者並みに「自立」することである

僕が「自立」さえすれば解決することが

数多くあるということに気が付いた

つまり最良の解決策は僕の「自立」だということに今更ながら気が付いた

そしてそんな「気づき」によって

僕の中の怒り、憤り、悲しみといったものが

消え失せてしまう・・

だからどんなに辛くても自分が頑張れる


そう思えることが

「知恵」ではなく

僕の「智慧」ではないかと

思ったりしている

なんか今日はよくわからない記事になってしまった・・

僕はいったい何を言いたいのだろう・・



少なくとも自分に対して

余計な怒りや悲しみや憤りや不安といったもんは捨てろ

そんな自分の心の中だけにしかない

無意味な邪心に振り回されるな


ということが言いたかったことは確かだ

そんな考えを「智慧」ではないか

などとと思っていた



きっと僕は「智慧」というものによって

苦しみから逃れたかったのかもし知れない


だから

僕の「智慧」とはな何ぞや

などと考えていたのだろう