生きさせられているからこそ、生きなければならない

今日高野山に授戒に行ってきた・・
半身麻痺という辛い状況の中、

何か少しでも辛さを乗り越えられるヒントになるものがあれば良いと思って・・

この授戒中は幾つかのお灯明が点いている他は窓も扉も全部閉められ、
真っ暗な中で儀式が行われる。

最後の扉が閉じて暗くなり、ぼんやりと灯明の光が見える中で、
少々緊張しながら椅子に座って待つ
(本来なら正座して待つのだが僕は左脚がある程度以上曲がらないので椅子に座らせてもらった)

待つこと事数分。

目が暗さに慣れた頃、阿闍梨様がお入りになられまして、
授戒堂の壇上にお座りになられました。
そして静かに真言を唱えられる。

そして講話・・

通常なら複数の授戒を受ける人ががくるのであろう授戒堂は
およそ畳50畳以上はあると思われる広い部屋だった

ところが今日みたいな平日に誰も来れるわけでもないく

僕ひとりだった

なんと畳50畳以上はあると思われる広い真っ暗な部屋に僕ひとりポツンと真ん中に座り

なんと阿闍梨様と1対1での授戒である・・

授戒中はその部屋への出入りは一切禁止

お手洗いさえ行かせてもらえない。。

どんな講話が聴けるのか少々楽しみにしていたけど

残念ながら僕には講話自体少々退屈であった

不殺生
不邪淫
不悪口
不邪見

等々・・

要するに「正しい行いをせよ」というような話が続いた・・

こんなものかと少々期待外れであったのだが・・

ひとつだけ心に残った話があった

それは

人間は皆

「生きている」のではなく

「生きさせられている」のだという



それもそうだろう

僕自身それは痛感している

一昔前なら既に死んでいたかもしれない脳出血

医学の進歩の(おかげ?)で生き延びた

でもその代わり、

酷く辛い障害を抱えて生きることを余儀なくされている

「現代医療によって無理矢理生かされた」感はいつもある

こんな辛い思いをしてなぜ生きなければならないのか?

医療の進歩さえも恨めしく思ったことも何度もある

まさに「生きさせられている」感じだ・・

だから何度も死なせてほしい

死んで楽にさせてほしい

何度となく考えた

なぜこんなに苦しい思いまでして生きなければならないのか?

今日の話の中で

生きさせられているというのは人間は他の生き物の命を食して

他の命によって(他の命を食って)生かされている

「生きている」ということは「他の命によって生かされている」

ということだ

そのことでふと気がついた

他の命によって(他の命を食って)生かされているのなら

その食った他の命は、

もしかしたら、「あともう一日」生きたかった命かもしれない

そんな命を僕は(生きている限り)食っているのだ

だからその命を無駄にはできない

だから僕は生きなければならない

生きている限り、

そして他の命によって生きさせられている限り

僕は生きなければならない

どんなに辛くても・・


生きなければならない理由は

これかもしれない

そう思った・・・



それがそれとして、新緑の高野山は素晴らしかった

その新緑の息吹によって僕の心は洗われたような気がする

俺はまだ生きている!脳出血・半身不随になった元IT系社長の独り言


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