許すことは自身を救うこと


弱い者ほど許すことができない。許すということは強さの証だ」

この言葉はあの非暴力・不服従主義で有名なマハトマガンジーの言葉だけど、

最近僕は「許す」ということは自身を救うことではないかと思うようになっている。

なぜなら、例えば

僕を襲った病気に対する憎しみ怨みや悲しみや怒りと言ったような気持ちを考えると

これが病気でがなく人に対する憎しみ怨みや悲しみや怒りだった場合、

「復讐したい」とか「報復してやる」という気持がでてきて、復讐や報復ができれば

そういった気持ちが晴れるかもしれない、

でも、もし、復讐や報復ができたとしても、そんなことをしてしまえば、

後悔や自責の念だどが絶えず心の中に付きまとうような気もする。

もちろん、復讐や報復ができなければ、「復讐したい」とか「報復してやる」という気持が

永遠に付きまとう。

それはどちらも、決して良い状態ではなく、どちらも(復讐できてもできなくても)

自分自身を苦悩に陥れるような気がする。

だから、復讐や報復で自分が救われるわけではないことを意味する。

そこで唯一、自分の心が救われるのが「許す」という行為ではないかと思う

でもこの「許す」という行為も「我慢」や「忍耐」の上で成り立っているものであるならば

それはいつか忍耐が切れたとき、再び自分を苦悩に陥れる

だから「許す」には「自分が納得できる理由」が重要だと思う

例えば、キリストの言葉ではないけど、

神よ、汝を許されんがために・・

というように、たとえば相手が無知だたから、たまたまそうしただけであって

止む負えないことだったのだと

自分の心のなかに「相手に対する許しの心」を持つことができると

復讐や報復は謝罪要求のような気持ちも消え失せると思う。

そんな気持ち(復讐や報復は謝罪要求)がなくなるこことが

自分にとって一番の「救い」なるのではないかと思う



そんな意味で僕は僕の障害を許せるようになりたい

人間いつかは病の床に伏し、死を迎えるのだから

僕が脳出血になったことも自然の摂理の一つで仕方がないのだと

障害を許せるようになりたい。

そうすれば障害の苦しみからも幾ばくか自分が救われるような気がするから・・

だって病気に対しては復讐も報復も謝罪要求もできないんだから・・