僕が「釈迦の仏教(タンマパダ)」に嵌った訳

僕は今、釈迦の仏教(タンマパダ)に嵌っている

あえて釈迦の仏教という言い方をするのはその後出てくる

現代仏教に繋がる大乗仏教(般若心経の大元)とは大きくあまりにも違うからだ

僕が釈迦の仏教(タンマパダ)嵌った最大の理由は

この釈迦の仏教の教えが僕自身の心を救ってくれるからだ

そして、釈迦の仏教(タンマパダ)の最大の特徴は

限りなく合理的な自己鍛錬のシステムであり

釈迦(ブッダ)は

あの世とか永遠の魂というような神秘性を一切排除し否定ていること

そして自我の存在さえも否定していることだ。

そして苦の根源は自我にの中にある執著(執着のようなもの)であり、

すべてのモノ(この世の全ての実体)諸行無常であり、一瞬(刹那)に変化している

(実体のないもの)であり、

永遠の存在など一切ないということを


心の修業によって悟れ


というものだからだ。



この考え方は

僕が脳出血で障害者になってからというものずっと感じてきた事と同じだ

自我さえなければ

(健康でいたいという)こだわりも

(健常者でいたい)思い入れさえも

なくなり、あらゆる執着から解き放たれ

結果として、障害者であることに苦しまなくても済むと思っていた。

そして死は「無」であるという僕の考え方と

釈迦があの世や永遠の魂を否定していることも

似ているから・・





僕は思う・・

永遠の魂とか

先祖霊(守護霊とかいうもの?)とかいう

そもそも存在もしていないものに人が救われると感じるのは

それは「過去に生きた人(つまり死んだ人)の存在の記憶とか言葉」が


自分の心に残ること

結果として

自分の行動が変わり、救われるのではないかと思う

つまり大切なのは神でも先祖の霊(守護霊とかいうもの?)でもなく

自分自身の心なのだ

実際、釈迦も臨終に際して弟子たちに

私はもう雲散消霧するが、お前たちは私の残した言葉だけを

大切にして修業に励むように言ったそうだ

このように自分を救えるものは自分の心でしかない

他の神秘的な力によって救われることはない

という考え方が僕にはとてもストレートに受け入れられるのだ

なぜなら

障害者になってからのこの4年というもの

様々な人がいろんな「神秘的な」救済方法を僕に教えてくれたものだ

ときには遠隔治療ができる超能力者までお出ましになったんだから・・

そのどれもが僕を治癒してくれなかった

治癒しくれなかったどころか、

逆に「やっぱりダメか」という

酷い挫折感だけを僕の心に遺して去って行った


だから僕は今、そういう「神秘性」を持つ宗教のようなモノ

(モノというのは医学にも神秘的な医学?が存在するから)

は一切信じない

というか信じられなくなったのだ

信じるのは現実のみ

そして自分の心であり自分の脳である

話はちょっと逸れたけど

そんな意味でも大乗仏教も好まない

なぜなら紀元前後に生まれた大乗仏教も大元の釈迦の仏教とは大きく変質し、

「あの世」とか「観音菩薩」という架空の空想物を作り上げ、

毎日仏像に向かって祈りやお経を唱え続ければ、

或い、はとにかく仏の力を信じ続ければ、「(神とか霊とか)神秘的力で?」

救われるという世界を作ってしまったからだ。

それにひきかえ、釈迦の仏教(タンマパダ)は

あくまで現実的であり、唯一苦悩を救える方法は、

自分の心の持ち方を変え、自我(自分の偏見やこだわり思い入れ)をを心の修業

によtって限りなく捨て去り、この世の中或いは人間というものを極めて客観的に

捉えることができたときにこそ救われるという自己鍛錬の方法だから・・

それは今の僕に最も必要な心の鍛錬であり、必要とされる考え方だから

こんな超現実的な自己救済の方法を悟った釈迦という人間はやっぱりスゴイと思う。。


自分を救えるのは自分だけ・・

この言葉に尽きる・・

そして僕は

自分を信じている

それは自分の能力が長けているとかそいうことではなくて

自分の(考え方)を信じ、続け心を前向きにし続ければ

大きな道でなくても良い、でもなにがしかの道は開くことができる

そう信じて生きていきたい・・

障害者でもできることは必ずある

そしていつも無私無欲でありたい

たとえ永遠に到達不可能な目標であっても無私無欲になりたい

なぜなら、このブログの冒頭にも書いてあるように

無私無欲こそが

何者にも負けない強い心であり、

何よりも前向きになれる心だと思うから