運命、自我、自由意志・・

僕の左手・・

何の傷もない

健常そのものだ・・・

筋肉も付いている

確かに僕の左腕だ

のはずだ・・

なのに動かない・・

僕の意思を無視する

そして 痺れ、痛む

これは本当に僕の腕なのか・・?

僕の肩から確かにぶら下がっている

これはサウスポーだったあの僕の自慢の左腕なのか?

左足も同じだ・・

何の傷もない

健常そのものだ・・・

なのに動かない・・

僕の意思を無視する

そして 痺れ、痛む・・

これは本当に僕の足なのか?

僕にこんな「運命」が待っているとはよもや思わなかった

不自由のなるってこういうことだったのか

存在するのに僕を無視する

健常なのに動かない・痛む・痺れる

困ったもんだ

こんなことになる事が「僕の運命」だったのか?

って・・感じている

そして運命ってなんだろうって

運命っていうことは

「最初から決まっていた」っていう事?



僕は昔アインシュタイン運命論を支持(信じて)してきた

アインシュタインによると・・

人間は生まれた瞬間から死ぬまであらゆることが運命付けられている

という

それは物理学の法則からの考えだ

僕も理系だったし、いわゆる科学者の端っくれだったから

アインシュタインの言うことも何となく理解していたつもりだ


つまり、物理の法則によると

原因に対する結果は一つしかない

いわゆる因果律がこの世を支配しているという考え方だ

僕なりにこの運命論の意味を書いてみると



例えば・・

この世はビリーヤードの台の上のようなもので

そして、

この世を形成する原子或いは素粒子という基本物質が

ビリーヤードの玉のようなものと考えるのだ

いわゆるビッグバンでこの宇宙(世の中)が始まったっときが

ビリーヤードでいう白い球を突いた瞬間である

それがこの世の始まりの「原因」だとすると

白い球を突いた瞬間の突いた力と方向によって

その他の色の玉(この世を形作る原子或いは素粒子という基本物質)の

その後の挙動はすべて決まる

つまり

この世の全ての未来が決まる

というような感じで考えていた。

それはそれで理路整然としていて

そんな風にはじめから運命が決まっているなら

それに無理にして抗うこともないだろう

なんて考えていた


でも

今、こんな障害者になってしまうと

本当に抗わなくて良いのか?

と自問自答している

このままで良いのか?

いや違うのではないか

僕はこの世の物事は

できる限り客観的に観る方が良いと考えていた

主観(思い込みやこだわり)で

この世の物事を観ると判断を誤るとも考えていた


そして障害者になって、更にその考えを加速しようとしていた

いわゆる自我があるから自分の障害に苦しむんだと考え

苦しまないためにも自我なんて捨てたい、捨てた方が良い

その方が心も安定するし良いと考え始めていた


でも今、ちょっと違うのでは?

と考え始めている

簡単に言うと

主観や自我(エゴイズム)をなくすことで

自然の成り行きに身を任せるような生き方

本当にお前はこのままで良いのか?

これを自分の運命(大自然或いは大宇宙の法則)だ

と受け入れて本当に良いのか?

俺は本当にそれで満足なのか?


いや違う

と感じ始めている

客観性なんてどうでも良いではないのでではないか

人間にとって本当に大切なのは本当は「主観」であり自我であり、

もっと言うと我欲ではないのか・・・・と

仏教でも無私を説いているけど・・

折角この世に生まれてきたのに

無私

でよいのか?

人類が、文明が発展してきた根幹は

実は自我の存在であり、「主観」であり、

我欲があったからそではないのか

僕が人の役に立ちたいと考えるのも

結局は自分のためであり、

自我(エゴイズム)ではないのか

もしそうなら

人間は生まれた瞬間から死ぬまであらゆることが運命付けられている

というようなアインシュタインの運命論なんてウソだ!

そんなことはない

人間には運命に抗うことができる、

いや、

運命を変えることのできる「自由意志」が存在するはずである・・

だとしたら

もっと自分を中心にこれからの生き方を考えてみても良いのではないか

そして自分の自由意志をもっと尊重してみても良いのではないか



などと

思うようになってきている最近である


まこんな事を考えている自分が我ながら理屈っぽい人間だな

などと

また自分を客観的に観ている自分が可笑しい