『おのれ』を棄てる

昔、、

侍とは・・

「『おのれ』を棄てたものだ」

そして

「さむらいには生死ともに自分というものはない」

と言われた


そこで・・

僕自身、「『おのれ』がある」から障害に対して悲しみ、悔やみ、苦しむ

そして自暴自棄になる瞬間があると感じている

障害を負ってからもう4年も経つけど、まだ苦しいときがある。

『おのれ』とは「自我」だと思う

「自我」・・これほど困ったものはない

と僕は思う

「自我」があるから苦しむ

「自我」さえなければ、物理的な「痛み」さえも耐えることができると僕は思っている

なぜなら、僕の場合、心に緊張や不安が走るだけで、麻痺側の痙性が強まり、

(おそらく自律神経のせいだろう)痛む、痺れる


こんな麻痺の疼痛の経験からも精神(心)は痛みと連動しているとつくづく感じている


「心が緊張し、不安になる・・」これは「自我」があるからだ


『おのれ』があるからだ


何も精神論だけで『おのれ』を棄てることが良いと思っているわけではない

物事の判断の客観性も失わせると思う

「自我」というものは「こだわり」や「思い入れ」といったような心を生む

「こだわり」や「思い入れ」は客観性を失わせる大きな原因と思う

「こだわり」や「思い入れ」は主観的で、冷静な判断を誤らせると思う

そして強い「こだわり」や「思い入れ」があるがゆえに

それにそぐわないと心が苦しむと思う

自分の「こだわり」や「思い入れ」にそぐわないと

怒り、悲しみ、憎しみなどの感情が生まれる

それが僕の苦しみの大きな原因だと思っている

物理的な「痛みや痺れ」さえもそんな「自我」から生まれているような気がする

だから「『おのれ』を棄てる」ことができれば

どんなに心の安寧が得られるだろう

物理的な「痛みや痺れ」さえも耐えることができ、そして和らぐのではないか

そしてどんな苦境にも動じず、客観的に物事を自然体で捉えることができ、行動できるだろう

そんな風に思っている。

だから・・・

僕は「『おのれ』を棄てる」ことに努力したい


そんな聖人のようなことを僕ができるかどうかわからないけれど・・

努力だけはしたいと思う