僕が生きるための心の支えと気持ちの張り・・人とのつながりと人との約束

今日僕は僕が生きるための

生きる意味というか「生きがい」のための

気持ちの張りを支えるものが何か

はっきりと認識した・・

それはやっぱり「人とのつながり」だった

いわゆる「絆」に近いものだと思う

僕は「人とのつながり」のために生きている

そして「人とのつながり」があるからこそ気持ちの張りがあり、

苦しい障害を背負っていても生きていられると思った





僕は今 いわゆる「ひとり暮らし」である

人間「ひとり暮らし」になると気持ちに張りはなくなりやすい

特に男はそうだと思う・・

(女性のことは分からないけれど少なくとも僕が男だから)


妻に先立たれ一人やもめになった男性が早死するというのもわかる

ひとりはいけない・・

ひとりでも外に「人とのつながり」をつくらなければいけない

健常者でも(僕が健常者の頃でも)独身で「ひとり暮らし」ときでも

「外に人とのつながりがない日」は生活がグタグタになってしったものだ

何をするのも億劫になる

朝起きるのも遅くなる

そして何もかもが怠惰な生活になるものだ

そして「意欲」を失っていく・・


ましてや、
今の僕は左半身が鉛のように重く、痺れている

「何か(義務的なもの)」がなければ

とてもベッドから起き上がる気になれない

そして起き上がらずにベッドに寝ていると

余計な考え(ネガティブな考え)が頭の中に広がっていく

そして徐々に生きる意欲までもが削がれてくる


でも


「外に人とのつながりがある日」は

その「つながり」のために人との「約束事」が発生する

「約束」・・・

これは守らなければならない

それほど人間にとって「約束」とは大事なものだと思う

なぜか


「約束」を破るとその人との「つながり」が切れるからだと思う

「約束」といってもそんな大層なものでなくてもよい

食事に行こうというレベルの「約束」で十分・・

その「約束」が僕をベッドから引き越してくれる

歯も磨かせてくれる(特に女性に会うときなど・・笑)

髭も剃る・・


どんなに身体が重くても不思議とするものだ。

でも、そんな「約束」がないと僕はいつまでも起き上がらないだろう



去年の秋、息子と鈴鹿サーキットに行く約束をしたときのことだ

当日、やはり身体が重い、痺れている・・

でも息子との「約束」だから・・

起き上がった、、

そして鈴鹿サーキットまで電車とバスを乗り継いで行った・・

その上、あの広大な起伏の多い鈴鹿サーキットも息子に連れまわされ歩き回った

それも息子との「つながり」であり、「約束」があったから・・


そんな意味で

僕は「人とのつながり」と「人との約束」をするように努めたいと思う

それがあるから、僕は身体が辛くても起き上がるし、

そして生きるのだと思う

人とのつながりこそが僕の生きる意味でもあり、生きがいでもあると思う


それが全てなくなったら、生きている意味がなくなると思う

つまり死んだも同然。。。。

僕がこの障害の苦しみを耐えてでも生きることができるのは

いろんな「人とのつながり」があるから

僕が志としている再生可能エネルギーの普及活動も「人とのつながり」だらけである


そして「約束」でいっぱいになる

だから・・生きる 

障害が辛くても・・