役割を演じ切る

僕は生きていく中で「役割を演じ切る」ということに以前からこだわっていっる

「役割を演じ切る」とはどういうことかというと、

例えば現代の学校の先生は「聖職者」としての役割(例えば高潔であるとか、正義感が強いとか清廉潔癖であるとか)を演じ切れていないと思う。
その結果として、
生徒はが学校の先生先生方軽んじ、

師をあおぐ気持ちがない

だから先生も教える張り合いがない

け結果として生徒も学びが身につかない。

こういう状況は社会にとっても大きな損失であると思う。

やはり、

聖職の師として先生を敬い、

謙虚に師事する心構え(姿)から

一言一句が身につき成長するにものではないだろうか。

親を大切にし、

上司に敬意を払う、

先輩に礼を尽くし、

師匠に懸命に仕える


そんな敬うべきものに対して、

素直に敬う心から

相手の言うことを吸収し、

自分自身の高めることができるのではないだろうか

そのためには

先生や上司あるいは親たるもの

「役割を演じ切る」という姿勢が必要だと僕は思っている

昨今マスコミが、「親」や「先生」など

本来敬うべき人たちの醜態を暴露する傾向にあるように思う

これでは「役割を演じ切る」ことはできないと思う。

人間である以上、完璧な人間など存在しない

お釈迦様ではあるまいし、自分の欲望もあるだろうし

それによって失敗もする。それは仕方がないと思う

でもそれを見せつけられると

敬いたくても敬うことができなくなってしまう

僕は親なら親、先生なら先生、政治家の政治家、

それぞれの「役を演じ切る」ことが大切だと思っている

たとえば親なら、

子にとっていつまでも「尊敬できる親」を最後まで演じ切ること

が大切だと思う。

変なたとえになるけれど

浮気問題で夫婦間がこじれていようが、

子供には絶対にそんな姿は見せてはいけないと思う

僕自身も、障害を負ってつらいが、

そんな辛さはどんなにつらくても、微塵も子供に見せないようにしている


死ぬまで「強いくて怖い父」そして

できれば僕の生き方を尊敬してもらえる父親を演じ続けたいと思っている

子供にとってそういう父であるからこそ、
父を敬い、僕のいうことを素直に聞いてくれ、

身に付けてくれるのだろうと思うから。
もし僕が、弱音をはき続け、「情けない父親」に映っていたら、

僕はどんなに良いこと、

正しいことを言っても聞く耳を持たないであろう

そんな意味で僕はこの障害がどんなに辛くても子供にだけは辛そうな姿を見せたり

弱音を吐きたくないと思っている

弱音を吐くのはこのブログだけで十分だ

そうして僕の話に耳を傾けてくれる父親を最期の日まで演じ切りたい