と き・・・「時」

以前にも書いたことがありますが人の苦しみや怒り、憎しみは

とき・・「時」が必ずしも解決してくれるとはいえません。


「時」が経ち記憶が薄れることで不安や怒りや悲しみが解消できるならば、

それは「忘れる」ということです。

つまり「時」が経過することによって「忘れる」ことができる問題は「時」が解決してくれる

どうしても忘れることができないとき「時は解決してくれない」のです

その悲しみや苦しみや怒りが今現在の毎日に関わる重大なことならば、

薄れる可能性より問題が、苦しみが更に深くなることだってあり得ます。

いや逆に必ず根深い問題になると思う

忘れることができるのは

その人にとって今現在の毎日に関わる事ではないからだと思う

僕にとって障害は確かに障害を負ったのは3年も前だけど・・

それは今、この瞬間も不自由と痛みという形で毎日に関わる事である

でも周囲の人たちは・・

違う・・

明らかに違うと感じる・・

周囲の人たちにとって

僕の障害は3年前に僕に障害が残ったときが重大事だったのだと思う

そして周囲の人たちにとってその瞬間が「非日常」であって

悲しむべきときだったと思う

でも「時」が経つにつれて周囲の人たちにとっての「非日常」は

「日常」に戻っていった。

つまり「過去の出来事」になったと思う

でも僕にとっては3年経過しても障害は「現在進行形」つまり「日常」である

いやこの3年間ずっと「現在進行形」であった。

だから絶対に「忘れる」ことなどできない事である

「時」が経過すればするほど余計に苦しくなる

いつまで続くのか・・と

でも周囲の人(家族を含めても)と僕は明らかに違う・・・と感じる

僕にとって「当時のこと」は「現在のこと」なのだ。

障害を負うことによって起こった悲しい出来事や怒りの出来事は

「時」が経つにつれ、

その悲しみや怒りはより大きくなってきているように感じる

忘れようとしても忘れられないのだ!

だって目の前に麻痺して痺れた腕がある、脚があるのだから。。

とき・・ 時・・ときの経過・・

そんなもので僕の苦しみが解放されるのならどんなに楽だろう

「時が経てば・・」なんていう言葉は僕には何の効力もない!

だから僕は「この障害に関わる苦しみや悲しみに対して「時を待つ」ことはしない

行動する!行動に出る

待っていたところで

「時」は何も解決してくれないから・・

その行動がたとえ裏目に出ても・・

「待つ」ことで何も解決しないよりはずっと自分で納得できるから・・