僕が生きている理由 今回で1000記事達成です

この記事で障害者となってからアメブロを書き始めて

書き始めて約年、今回で1000記事目になる

よく書いたもんだ

ざっと読んだだけでもこの2年間の自分の心の浮き沈みがわかる

我ながら気苦労して、葛藤していたんだな・・と感心する

折角の1000記事記念だと思い

テーマを無謀にも「生きる」にしてみようと思ったけど難しいな・・・

とりあえず思いつくままにを書こう


「生きる」ってやっぱり難しく複雑で、生きるって苦しくて

苦しくて仕方ないのに、

それでいて生き甲斐になることはたくさんあると思う・・

世の中には死ぬほど苦しい人生で死にたくても死ねない人

逆に生きたくても生きることができない人

どちらが不幸なのか

僕にはまだわからない



自分の「生きる」を考える前に

まず僕の生きていた記憶をた辿ってみた(障害者になる前の記生きた記憶である)・・



 
懸命だった。

自分の会社を守るのに・・

小さな小さな会社だったけど・・

それなりに志はあった。

日本の伝統の技を世界に伝えるという志

なぜそんなL志を持つようになったか・・

それは日本の伝統の技(匠の技や技術)が衰退していくのを目の当りにしていたからだった

それが悲しかった・・日本人として

せっかくITの技術を身に着けたのだから・・

このITの技術で日本の伝統の技を世界に伝えたい・・

そして日本の伝統工芸品(着物・和包丁・和紙・日本刀・友禅染め藍染 etc・・

そのために作った海外向けのサイト

http://my-japan.jp/index-old.html

これら日本ではもう評価されていない


伝統工芸品の職人さんたちの「作品」が

世界で評価され少しで売れることで収入となれば、後継者の弟子も持つことができ

(現実は・・例えば日本刀の職人[刀匠]の弟子などは10年間無報酬である
これでは弟子が付かない・・結果として伝統の技や技術が消えていく)

日本の伝統の匠の技が衰退していくの防ぐ一助となるのではないか・・

(現実は・・例えば日本刀の職人[刀匠]の弟子などは10年間無報酬である
これでは弟子が付かない・・結果として伝統の技や技術が消えていく状態だった)

そんな思いだった。

この発想は良かった

現にこのビジネスモデルに金融機関が賛同してくれ、

会社の規模に見合わないくらいの規模の融資をしてくれた。

自分の事業コンセプトを認めてもらえて有頂天だったと思う。

それが馬鹿だった

会社の規模に見合わない規模の融資を受けるということ=会社の規模に見合わない返済を迫られる

つまり会社の規模に見合わない売上をあげなければならないということだった。

そのことに気付き始めたときには時すで遅しだった。

融資の返済のために無理な「プログラムの仕事」を親会社から請け負った。

某超大手通信会社経由の仕事だった。

今をときめく、なでしこリーグの公式記録データ表示サイト

大変だった。


徹夜に続く、徹夜・・

それでもミプログラムミスの発生・

・親会社やその大手通信会社からのクレームに耐える日々・・

プログラムミスでサイト(公式記録)が正しく表示されない状態だから

製作費用も入金されない。

日本の伝統工芸品を世界に紹介販売するサイトの

メンテナンスに手が回らなくなっていた。


当然、伝統工芸品の売上も低迷・・

それでも銀行からの融資の返済だけは迫られる・・

会社の預金通帳の金額はどんどん減っていく・・

胃が痛くなってくる

従業員の給料を滞らせるわけにはいかない。

仕方ないから自分の給与を削る

そうすると家庭の生活が危うくなってくる。

そんなストレスが積み重なっていた2008年9月・・

忘れられない出来事が起こった

リーマンショックだった・・

マネーゲームに勤しんだ連中が金融破たんを起こした・・

僕の伝統工芸品の販売のマーケットは大半がアメリカだった。

アメリカ人はほとんどが銀行に貯金をする変わりに株式に投資をしている

だからリーマンショックで株式急落するとほとんどのアメリカ人の資産は目減り

その影響を伝統工芸品の販売がモロにかぶった。

翌月の2008年10月伝統工芸品の売上が5分の1にまで落ち込んだのだ。

融資の返済ができない・・

かといって伝統工芸品の販売をやめるわけにはいかない。

伝統工芸品の仕入先のメーカーさんからも期待されていた

国内マーケットが縮小一方の中で

岡下さんルートの海外向け販売だけが望みの綱だと・・

でも従業員の今月の給与が払えない・・

僕は顔が蒼くなったのを覚えている

胃もねじれるように痛く食事も喉を通らなかった。

そして・・

血圧が上がりは始めたのだ。。

明らかに過剰なストレスだった。

僕は小さなころから

基礎疾患としてもやもや病(正式名称:ウィリス動脈輪閉そく症)を持っていた。

この病気・・脳の血管が異常に細くなる(レントゲンでも見えないくらい細くなる)病気だ

難病指定にもされている

幼少期には虚血発作という一時的な麻痺発作を起こす

僕も小学生の頃、過呼吸をすると麻痺発作を起こしていた。

でもいつの頃からからか発作はおこらなくなっていた。

でも脳血管が異常に細いことには変化はなかったのだ。

血管は40歳を超えると誰でも脆くなる、僕の脳血管はその上人より異常に細い

そこへ血圧が上がりは始めたのだ

どうなるか結果は見えていたはずだった

気にはなっていた

でも見て見ぬふりをしていたのかもしれない

自宅で血圧も毎日測っていた。

2008年11月19日 血圧 上185 下105

2008年11月20日 午後14時15分

僕は事務所に出てPCを開いた

まずはメール確認・・・・

あるメールが目に飛び込んできた

例の某超大手通信会社からの超クレームメールだった

なでしこりリーグの公式サイトのと得点経過データや警告・退場データと出場停止データに
不一致が出ているとの怒りのメールだった。

このメール脳出血の引き金には十分だった。

一瞬カっ!となった(しまった!と同時にまたクレームか!ムカついてしまったのだ

その瞬間・・

頭部に熱いモノが流れるのを感じた

咄嗟に・・・

本能的に・・

「ヤバイ」と思ったか思わないかと瞬間だった

天井がグルグル周り始めた

脳血管が切れたとはっきりとわかった

そのまま崩れ落ちるように事務所の床に倒れ込みながら

従業員に「救急車!」と自分で叫んでいた。

約15分後救急隊が来た。

この瞬間だった。

僕の人生が180度変わったのは・・

まだ気付いていなかったけど








それから・・




完全な健常者としての復帰が不可能と分かり、

今まで築き上げてきたモノ(会社・自分の身体機能・父としての役割・夫としての役割)


を全て諦め、捨て去らなければならないと悟ったのは

約半年の入院後、健常者としての復帰が不可能と分かったときだった


会社の破産と同時に自己破産・・

社員の解雇・・

何もなくなった

身体の機能さえも・・

途方に暮れた 妻や息子にも申し訳ないという自責の念でいっぱいだった

でも

何をどうして良いのか全くわからなかった

破産くらいしても、


せめて健常者なら・・


肉体労働でもして一からやり直すことができるのに・・

それさえできない・・・

これで僕は生きていてよいのか?

生きる資格があるのだろうか


気が変になりそうだった



でもなぜか


生きなければならない・・のだった

誰も死なせてはくれない

それだけは厳然たる事実だった

誰も死なせてくれない

生きているから生きなければならない

のか?というような思いと

死ねば楽になるのにという思いと

死は苦痛からの永遠の解放だとさえ思っていた


でも

死んだら自分は楽になるかもしれないけれど

身内を悲しい目に合わせる事になる

そんな思いが交錯していた

どんなに泣きそうで

どんなに苦しくとも・・

僕はなぜ生きなければならないの?

何度も

何度も

心の中でひとり葛藤していた


結局、死ぬことはできなかった

自分は死ぬ根性もないのか

そんな気持ちにもなった

試そうとして・・できなかった

それで

自死は正気ではできない

狂気でなければできないことも分かった

でもこのまま生きていくこと自体「生き地獄」だと思った

最大の理由は

人の世話になり続ける(いわゆる介護)のが絶対に嫌だったから


そんな自分は絶対に許せなかった


介護されてただ生きるだけ


そしてただ老いるのを待ち、

いずれ来る死を迎えるのを待つだけ・・

そんなのは絶対に嫌だ!

許せない!

だから何かできることはないか考え続けた・・

来る日も来る日も・・



歩くことさえままならない

左手は全廃

左足も引きずっているだけなので歩くときはほとんど右足頼りといってよい

つまり、まともに動くのは四肢の中で右手一本だけ

これでいったい何ができるのか・・

とにかく何でもよかった

幸い頭(精神や頭脳)に損傷はない

それでできること・・

「頭を使って右手だけでできること」

それが結論だった


というか

それが最後に残っただけなのだが・・

結果僕の専門分野だったITを使うことに決めた。

さて何をするか(できるか)

当時から地球温暖化が叫ばれていた。

それはそんな事を考えていつ中での

本当に思いつきだった

ITの知識と右手一本で温暖化防止に役立つ技術情報データベースサイトを作ってみよう

それならできるかも・・

これなら少しは役に立つかも・・

そんな思いで

とにかく何かやりたくて

看護婦さんに超わがままを言いノートパソコンを持ち込ませてもらい更に無線LANが受信できるよう

窓際のベッドに移らせてくれ!通路側はイヤだ!と・・困った患者だったのだ。

そしてベッドからWebサーバーにアクセスし、データベースを作り環境技術データベースサイトを作った

明らかに自己満足だったと思う

よく考えれば、環境技術を探すのならこんなサイトに来るよりも

Googleで検索した方が速くたくさんの情報が収集できるのだから・・

でも僕はは恥ずかしげもなく自分の作ったこのサイトをアピールしまくった


あの手、この手で・・

このブログを始めたのも、正直その一環だった



そして今・・

具体的に再生可能エネルギー技術の情報が僕に集まって来ている

ネット経由というより、このサイトをアピールした人の「紹介」がほとんどだ。

お蔭様で今僕は


たぶん

日本でも最新の再生可能エネルギー技術をよく知っている一人だろう

不思議なものでこうなってくると

次から次へと情報が集まってくるのだ

そして、それを海外に提案しようとする段階にまで来ている

驚くべきことである

僕はこんな身体だから再生可能エネルギー技術を普及させなきゃいけない

発展途上国のような国にはいけないけれど・

僕の持っている情報を提供すれば、できる人が行ってやってくれるという

とまあ・・

こんな感じの実に不思議で予想だにしていなかった現在がここにある

確かに今でも痛みと痺れは異常に苦しい

まだ死にたいと思うことも確かにある

そんなとき

僕が伝えたことで

発展途上国

無電化地域で

水不足のアフリカで

飲料水を飲める子どもが増えることを想像すると

やっぱり死んではいけない

まだ僕にでもできることがある

きっとある

だから生きなければならないと思う



そしてそれが僕の心の中だけの

僕の心だけの

誰の心の中でもない

僕の心の中だけの希望なのかもしれない

そしてそれが、たぶんこれが僕が今も生きていける理由だろう

ちょっと傲慢過ぎるかな。。