意欲こそすべて

身体の不自由さや

痛みや、痺れが

辛くて

苦しいとき

「負けるもんか」と思えるときと、思えないときがある

何が違うのだろうか

自分なりに考えてみた。

一つは何かに感動したときである

例えば感動する映画で主人公が最後の最後まであきらめずに頑張っている姿を

観たときやぼくよりもずっとずっと重い病気に苦しみながらも生きている姿を

見せつけられたとき



もう一つは使命感のようなものが湧き出てきたときだ。

2年前息子が脳の病気(難病)で脳の手術をしたときだ。

その病気は僕の病気の遺伝だった

だから僕は何か責任のようなものを息子に感じていた。

術後、手術室から出てきたとき息子の頭からはチューブが何本も出ていた

痛ましかった。。 そしてすまないと思った。

そしてICUに入った息子を僕は徹夜で見守った

その姿は見ていられなかったけど、

僕に何ができるわけでもんしけれど

「絶対に最後まで見ていてやるから安心しろ」

と心の中で誓っていた

そのときも

自分の身体が不自由であることや痛みなども忘れていたように思う

それより息子の病状を見守るのに必死だったから・・

今思うとそこにあったのは「この子は僕が何としても見守らなければならない」という強い使命感という「意欲」だったのではないかと思う。

人の心の中にある実体の見えない「意欲」というものが

物理的な痛みさえも制してしまうのではないか

昔こんな話を聞いたことがある


第2次世界大戦中のこと、連合軍がドイツ軍に向かって上陸作戦をするとき
(たぶんノルマンディ上陸作戦だったと思う)

ドイツ軍の砲撃と地雷だらけの浜を上陸していくときに

相当数の連合軍の兵士が負傷したという

そんなすさまじい砲撃野中、たくさんの負傷者が出ているにも関わらず、

衛生兵に痛み止めの注射をよう要求する兵士が非常に少なかったというのだ


これは本能的に
「今、痛み止めを要求している場合ではない!」
「生き延びるためには、それよりも安全な場所に逃げ込む方が優先だ」

という判断?から痛みを感じなくなっていた可能性があるという

つまり「生きる意欲」が痛みより勝っていたということになるのではないだろうか

人の「意欲」というものが、それほどまでに肉体を支配できるということを証明しているように思う

そう考えれば、息子の笑顔は僕の意欲の源泉だと思う。

この子を無事成人させるまでは障害者だから苦しいなどと泣き言って居られないと感じる

同時に不自由さの苦しみや痛みや痺れも瞬間的にどこかへ行っているように思う。

そんな経験から、

できる・できないとか、

苦しいとか 苦しくないとかは


全ては人の心の「意欲」次第だと思う

決して間違えてもらっては困るのは

意欲で痛みが「消える」わけではない

「堪える」ことができるようになるのだ。

意欲さえ出ればもうこっちのものだと思う

最近、よくやりたいことが分からないという若者を見るにつけ

家電業界の開発力の低下のニュースを見るにつけ


今の日本人に足りないのは開発力でも技術力でもなく

単に意欲が足りないだけではないだろうか

障害者になって思うことは

できない事は意欲さえあれば何とでもなると感じる。

「できない事はある、でもできない事はない」という感じである

いわゆる「工夫」であり「知恵」である

意欲さえあれば

「・・・だからできない」

「・・・だから無理」


ということには100%ならないと思う

 
「やりたい事がない」のなら、

まず、「やりたい事」を見つける事が先決だと思う。

少なくとも「やるべき事」を見つける事が重要だと思う

それさえもできないのは


きっとハングリーでないのではないだろうか

あのアップルの故スティーブン・ジョブスが死の直前、大学で遺した言葉

「ハングリーであれ!愚かであれ!(Stay hungry, stay foolish.)」

これは これこそ意欲の源泉であり、知恵の源泉だよ

ということを言いたかったのではないだろうか


僕は障害者となってから

「できない事だらけ」

になってしまい

結果として

「やりたい事だらけ」

になってしまい

やっといわゆるハングリーになれたように思う。

皮肉な結果だ。

日本人全体が昔(戦後直後)より「意欲」が低下しているように感じる

政治や霞が関の役人に対しても同じことを感じるのは僕だけだろうか