生きる意味

僕は半身不随の障害者になってからというものずっと生きる意味について

考え続けた。いや考えさせられた。

毎日が不自由で・・・

痛くて・・・

痛くて・・・

痛みに耐えて・・

痛みに耐えて・・

そんな苦るしみに

耐え続ける・・

そして耐え続ける・・

他にも必死で守ってきた自分の会社は破産・・

大切にしていた従業員も解雇せざる得なかった・・

こんな精神的苦しみに耐えてきた。

今も思い出すと苦しい

その上、息子にまで自分のもやもや病が遺伝したことが発覚・・

まだ5歳だった息子にリスクの高い脳手術を受けさせなければならなかった。


それでも生きなければならないのか

なぜ僕はこんなにまで苦しまなければならないのか


これでも生きていると言えるのか

いったい何のために僕は生きているのか?

苦しむために生きているのか?

生きる意味とはいったい何なんだ!

自問自答し続けてきた。

そんなとき、あのダライ・ラマの言葉が耳に入ってきた

あるインタビュアーがダライ・ラマに聞いた

「生きる意味と何ですか」

「わかりません」・・ダライ・ラマ

「・・・」

「ひとつだけ言えることがあります。それは人間には生きる権利があるということです」

生きる意味は分かりませんが人には生きがいを持って、そして幸せに生きる権利があるのです

と・・

いったいどういういう意味?

僕は思った、

この手の事を考えに考えまくったはずの修業僧でさえ「生きる意味」はわからないというなら

こんな僕が生きる意味なんて考える必要などないのではないか・・

ダライ・ラマの言うように

「人には生きがいを持って、そして幸せに生きる権利がある」

というのなら

そう!

どうやったら

(この身体で)生きがいを持って、そして幸せに生きる事ができるのか


だけをを考えた方が良いのではないか

そう感じた。

そこからかも知れない。

この身体で・・

できることは何かを真剣に考え始めたのは・・

この身体で・・

人の役に立てることは何かを真剣に考え始めたのは・・

そう考え始めてからそ自然と心の中に「志」という形を

形成していったように思う。

障害のある身体だ

だから持っている能力は健常者より小さい

でもそんなことは関係ない


「この身体(能力)でできる事は何か」から生まれた志はそれでぼくにとっては100%志である。

志を持つのに能力など関係ない。

志とは自分が生きがいを持って生きることができる

そして僕が価値があると信じて行動ができることでさえあればそれで良いのではないか。

そう思えるようになってから

確かに今でも障害を起因とする身体的苦痛はある。精神的苦痛もある

でも少なくとも心は前に向き始めたような気がする。

だから生きる意味など考える必要なんてないのだ。

そんなこと・・この世の誰にも答えることができないのだから・・

ただいまの自分の能力でどうすれば生きがいを持って、そして幸せに生きる事ができるのかを考える方が得だ。

ダライ・ラマの言うように

「人には生きがいを持って、そして幸せに生きる権利がある」

というなら

その「権利」を使わないのは「もったいない」ではないか