許すということ・・それは「学習」することだ

怒り・憎しみ・悲しみ・嫌悪といった

相手もしくは自分の状況に対するネガティブな気持ち

僕の場合、自分を襲った病に対する悲しみや何とも言えない怒りが

心の奥底にある。

同時に自分病気を理解してくれない周囲への怒りなどが湧くことがある

こういった気持ちは決して良いものではない。

こういったネガティブな気持ちにならないためにはどうすれば良いのか

ずっと考えてきた。

自分なりに出した結論、それは「学習が足りない」ということである。

人間というものに対する学習

相手というものに対する学習(認識とでもいうのでしょうか)

状況に対する学習

例えば人間というものは誰しも病に襲われるのであるという学習である。

あの釈迦が悟ろうとしたように

どんな人間も病・老・死から逃れることはできない

という学習と深い認識である

そのことをしっかり学習(認識)することにより

自分を襲った脳出血も人間にとってごく当たり前の事だと

いうことに気付く。

人間、誰しもいずれは病の床に臥せ死を迎えるのだ

そのことを深く学習し認識するのだ。

そのことによって冷静に受け止めることができる。
これが「許す」ということなのだろう。

相手の無礼に対する怒りにしてもそうだ。

殺人・盗難・暴行・非礼にしても

相手に対する学習と認識ひいては人間というものの学習と認識によって

怒りや憎悪の感情とは別に冷静に受け止めることができると思う

冷静に受け止めることによって、冷静な対処ができる。

怒りや憎悪の感情だけでは、感情だけの対応になってしまい

必要以上に怒りや憎悪の感情が強くなり、

トラブル助長させてしまう最悪の結果になってしうものだ。

僕の脳出血による半身不随という障害についても同じ、

大きな視点からは前述のように

どんな人間も病・老・死から逃れることはできない

誰しもがいつかは襲われる当たり前のことなのだ

そしてそれは自然の摂理なのだ。

という認識と学習により悲しみという気持ちの囚われから解放されるのだろう。

もう少し細かい視点からだと

脳出血による半身不随という障害という病に対する

冷静な学習と認識だ。

そこから、そんな心の状態から病の痛みや苦しみからも心が解放され

感情的にならずに、

冷静かつ適切な知恵と対処法が見えてくるのではあるまいか。

人間を学習する

相手を学習する。(例えば盗賊や強盗がなぜそういう行為に至ったかということの学習と深い認識)

世の中の状況を学習する(世の中がなぜこんな理不尽に思える状況になったのかという認識)

そんなことを考えていくと

全ては自然の摂理のひとつに過ぎないということに気が付く

そんなことが自分を怒り・憎しみ・悲しみ・嫌悪から解放してくれるのだろう。

怒り・憎しみ・悲しみ・嫌悪から解放は心を前向きにし、前むきな心からは知恵が生まれる

そこから初めて「許す(受け止める)」心にあることができるのではないだろうか

ネガティブな心からは知恵は生まれない、怒り・憎しみ・悲しみ・嫌悪しか起こらない。


そんな意味で「許す」ということができるのは「人間の強さ」なのではないか。

そんな人間の強さを身に着けるには「学習と「認識」なのだろう。

その意味でマハトマガンジーの言う

「弱い者ほど相手を許すことができない許すということは強さの証だ」

という言葉を重く受け止めたい。