修羅場では八方塞がりに見えるもの

人生の中での修羅場・・


そのときって人間は自分行く道が八方塞がりに見えるものだと思う。

四面楚歌・・

もうどうしようもない・・

そう考えてしまって心が追い詰められ死を選んでしまう

というようなことが多々あるのではないだろうか。


でも、決しそうではないと思います。

心がが八方塞がりになってしまっているだけで、

現実は何も八方塞がりなんかではないではないかと思う。

心が勝手に八方塞がり・四面楚歌だと

思い込んでしまっているに過ぎない

のではないかと僕は思う。

そのような状況とき、なぜか心は外部からの声を


聞く耳を持たない状況になりがちだと思う。

自らが「そう思いこんでしまい」聞く耳を持たなくなるのである。


僕もそうだった。

僕も、脳出血で倒れ半身不随になったとき、そうだった。

自分の会社は破産、自分自身も自己破産・・

何もなくなったと思った。

その上、身体は半身不随・・

僕のこれからの人生、、先はないと思った。

絶対に復活なんてできない。そう思っていた。


実際、こんなふうに考えても経済的に立ち直れる術は一つも思い浮かばなかった。


僕の人生はこれで終わりだと思った。

このまま一生介護を受けながら、生きていく。みじめな人生になるしかない。

そう思い込んでいた。

だから見舞客が「何とかなるよ。」と励ましてくれても、そんな言葉は、

一切耳に入ってこなかった。。

自分で、そう「思い込んで」いたのだから、、、


でも今の僕は違う。

倒れるものよりも、ずっとずっと、世界が広がっている。


生じる当初は、八方塞がりだと絶望していた。


でも、、

あるとき、友人が片手でできる仕事があるよ。しかも自宅で、

という話を持ってきてくれた。

単なるインターネットショッピングの注文管理の仕事にすぎなかったけれど

その仕事をしているうちにどんな人との巡り会いができ始めた。

あるときそこから、自分の思いこみを捨てほかに対策オプションがないか。

右手日一本でできる「何か」がないか真剣に考えようと思った。


そこからやり始めたことは、まず自分の知りうる限りの知り合いに「会う」

ことだった。

身体は不自由で100メートル以上自力で歩くことさえもままならなかった

けれど、とにかくたくさんの人会うことを心掛けた。

その結果、人からアイデアをもらい、

それをできる限り素直に受け止め自分の思いこみを出来る限捨て、

本当にできるかどうか真剣に考えた。

そんな状況から新たなビジネスのイメージが生まれ現在に至っている。

要は自分の「思い込み」や「こだわり」を捨て、

客観的に自分をみ見て、あらゆる可能性を追求する心が大切なのだと思う。

そこから新たな(細いかもしれないけれど)道筋が見え始めたのだと思う。

修羅場の時点では、なかなかそのような心の持ち方ができないものだと思う。

でもやっぱりどんな状況であっても

可能性を追求する心を捨ててしまってはダメだと思う。

その心を捨てた瞬間に本当に可能性は消えてしまうと思う。

現在修羅場の真っただ中の人に、何を言っても

聞く耳を持つことはできないと、思うけれど、、、

これだけは言いたい。

可能性は必ずどこかにあります。それも自分のまわりに・・

それを考えられる限り探し回ることが大切だと思います。

必ず解決策はあります。

自分ができなければ、できる人に頼めば良い。

自分に知恵がなければ、人に知恵を求めればよい。

自分の殻に閉じこもって四面楚歌だと思い込んでしまわないことである。

自分一人では、どうしても客観的に、自分を観ることができない。

それは追いつめられた状況だから仕方がないと思う。

人間は神様ではない。

追いつめられたら心も閉じこもってしまい、

客観的視点などもつことは難しいものだ。

だからこそ人にお願いしようではないか。

他人だからこそ第三者的に自分を見ることができる。


そんな意味でも人間は生きていく上で、

「人とのつながり」が最も大切だと思う。

そんな「つながり」とか「絆」から

人生の打開策が見えてくるのではないだろうか

人間はどんな状況、どんな修羅場においても

本当の意味で八方塞がりとか四面楚歌にはなっていない場合が

多いと思う。

多くは心が八方塞がりとか四面楚歌にはなっているだけだと思う。

結果として、自らが知恵もアイデアも浮かばない

心理状態にしてしまっているだけではないかと思う。