希望や志に根拠なんて必要ない

僕は3年前、、半身不随の障害者になり、会社も生産、

無職無収入で全く先が見えない状況だった。

でもなぜか世の中の役に立つ人間でありたい。

障害者でも健常者に負けないくらいの人間になれるはずだ。

という漠然とした自分に対する自信というか自分を信じるように心がけてきた。

そしてネガティブな気持ちにだけはならないように無私無欲の心境になるように心がけた。

そうすることによって、憤りや怒り、悲しみといったものを和らげることができた。

そして、大きな大きな夢をまず持つようにしてみた。

目先の苦境には振り回されないように、目先苦しいことや悲しいことや憤りがあったとき

その夢だけを考えるようにしてきた。

そのとてつもなく大きな夢や志を実現できる根拠なんて全くなかった。

今から考えると夢や志に根拠なんて必要ないと感じている。

夢や志とは確証された成功とは全く違うものだと思う。

何の根拠がなくても誰かにできることを証明できなくても

自分の心に夢や志を持つことが大切だと思う。

そもそも夢や志に前例などない。

だから夢であり志なのではないか。

そこに「根拠」を求めたら、「過去」の実績でデータなどから

「根拠」を作り上げなければならない。

前例がないから、できるかどうかわからない「理想」だから「夢」ではないのか。

「きっとできる」とか

「絶対にやり遂げてみせる」という心があればこそ全く新しい知恵も出てくるのではないか


過去の実績に基づいた「根拠」など求めていたら、夢や志など持つことなんてできないじゃないか。

それでははまるで役所の役人や官僚ではないか。

前例がないからできない。トライすることさえ了承できない


そんなこと言っていたら新しいものなんて生まれない。

はじめから不可能と決めつけてしまった時点で思考停止に陥るのではないだろうか。


不可能と思うから不可能になる

根拠などなくても絶対可能だと信じる事ができれば、

新たな知恵も出てくるのではないか。


脳卒中片麻痺から「完全回復」した前例はないと思う。

だからこそ僕はトライしたい。

45歳で片麻痺になったということは45年かけて作り上げてきた(鍛えていた?)

身体機能を失ったということを意味する

じゃあ、もう45年かけて90歳で再度機能訓練すれば元に戻るんじゃないかと勝手な希望を

持つことにした。希望と言うより志だ。

もう45年なんて気の遠くなるような長い長い道のりだけど諦めない。

前例がなくともやってみようと思う。前例がないからこそやりがいがあるのじゃないのかな。
 

前例がないからこそ夢であり、志として頑張れるんじゃないのかな。

希望とは世界の状態ではなく心の状態である。 希望、この深く力強い感覚は、
物事がうまくいっているときの喜びや成功が明らかな企業に投資する意欲などとはまったく異なるものだ。
むしろ、価値があるという理由で行動のできる能力であると思う。

また希望とは身体の状態とも関係がない。どんなに苦しい身体の状況であろうと
心が破壊されない限り希望は持つことができる。
希望を持つことにより人間は「意欲」が湧く。「意欲」は知恵の源泉だ!
生きていくための知恵の源泉だから、この知恵の源泉である希望を心から捨てるわけにはいかない。
人間は希望を持つことにより苦境を脱する英知が発揮できるのだ。