強く負けない心、折れない心

どうしようもなく悲しいとき、辛いとき、

心が折れそうになってしまうとき、

身体が思うように動かなくて、

これまでたくさんのものを諦めてきた、

たくさんのものを失ってきた、

でも僕は負けない。

心が負けてしまうのは、折れてしまうのは、

「我」があるからだと思う。

僕の中にあったた「我」は僕の中のプライドを失うことを怖れる

喪失への怖れがあるから負けてしまうのだ。

心が折れてしまうのだ。

「我」は僕のプライドとか僕の45年間積み上げてきた「誇り」

のようなものではないだろうか。

それが壊れてしまったような気がする。

僕のプライドや「誇り」なんてちっぽけなものだけど、

そんなものさえなければそれを失うことに苦しむことはないだろう。

だから僕は限りなく自分の中にある「我」を葬ってしまうように努力している。

「我」があるから人は苦しむのだと思う。

「我」さえなければ、心だけでなく、身体の痛みや苦しみにさえも耐えることが

できるのではないだろうか

心頭滅却すれば火もまた涼し」という諺があるけれど

これは本当だと思う。

僕の今感じている身体の痛みは脳が勝手に感じているだけなのだ。

痛みのある箇所には何の傷もない。

つまり心(=脳)が勝手に痛いと感じているだけなのだ。

身体的な痛みも心(=脳)が感じているとすれば、

自我という心(=脳)を限りなくどこかに葬ってしまえば、

精神的な苦しみだけでなく、身体的な物理的な苦しみさえも無くすことができるのではないか。

そして自我という心があるから僕は障害を負った自分に苦しんでしまうのだ。

たくさんの喪失したことに苦しむのだ。


そんなものさえなければ、障害で苦しむ必要なんてない。

確かに僕は朝着替えをするだけで20分近くかかる。

昔は当たり前のようにできていたことが、4倍5倍の時間がかかる。

でもそんなことで心を苦しむ必要はないのではないか。

僕のちっぽけなプライドとか「誇り」何か捨ててしまえば

障害は決して不幸ではない不便なだけじゃないか。

不便なら工夫すればよいだけじゃないか。

それよりも障害で心を病むことの方がのよほど自分を本当に不幸にしてしまうのではないか。

つまらない「我」を限りなく捨て去ることが僕の心を強くし、

決して折れない心にしてくれるように思う。

最近やっと、障害者になったことは決して不幸ではない。不便なだけなのだ。

不便なら工夫すればよいだけじゃないか。と思えるようになってきた。

そして障害者になったからこそ気がついたことがたくさんあることにも気がついてきた。

人間の生きる意味をしっかりと考えることができた。

何事も健常者の何倍もの時間がかかることで時間の大切さを気づかせてくれた。

これは決して不幸なことではない。単に不便なだけだ。

そう思えるようになった自分が少しは心が強くなってきたような気がする。

この先、心が折れてしまうことも無いような気がする。