僕は何のために生きているのか。何のために生きるべきなのか。

何のために生きているのか。

僕は何のために生きているのだろう。

またそんなことを考えている。

3連休という休みがあったからだと思う。

「あなたは何のために生きているのですか」

この問いかけに答えられる人は意外と少ないのではないのではないだろうかと思う。

事業に成功するため?

大金持ちになりたいため?

オリンピックで優勝するため?

そんないろいろな答えが返ってきそうな気がする。


でもそれはその瞬間の目標のようなものであって「何のために生きているか」

という質問の答えにはなっていないと思う。


でも僕は今、はっきりと答えることができる。

僕と「人との「つながり」を持つために生まれ生きているのだ」と・・

「人とのつながり」を持たなくなってしまったら死んでも同然だと思うからだ。

この3連休、僕は人との「つながり」がほとんどなかったように思う

息子はどこかに遊びに行きたそうにしているけれど

どこにも連れて行ってあげられなかった。

台風が近づき雨模様だったということもあるけれど

昔の僕だったら屋内プールにでも連れていってあげることが出来ただろう

僕自身が何を楽しんでいるのかからない。

とにかく体を動かして楽しむことは一切できない。

たかが基本的な「歩く」ということさえ辛いからどこかを散策すること(京都などでなくても近所の公園さえも)

散策することは楽しみではなくなってしまった。

「ぶらり散策」は僕にとっては地獄になってしまった。

台風が近づいているせいか体中の痺れがキツく辛いからネガティブな思考に走ってしまう。


僕が健常者の頃最も楽しみとしていた「泳ぐこと」も全くできない。

この夏は当然のことながら海にはいかなかった。

夏に海に行かなかったのは生まれて初めてではないだろうか。

「どこかに出かける」こと自体楽しみではない。

外出先のトイレのことを考えるだけで面倒くさくなってくる。

障害者用のトイレがなければ用も足せない。

とにかく外出は辛いだけなのだ。

足も鉛のように重く動かない・・

仕事であれば「楽しみ」ではなく「使命感」があるから外出ができる。

義務がなければできる限り外出なんてしたくない。


最近は「旅行」という言葉を聞いても空虚に聞こえる。

旅のコマーシャルも自分にとっては無関係だと感じる。

身体の半分が麻痺して動かないというのはこういうことなのかとあらためて感じる。

そして僕の生きる楽しみって何なんだろうとあらためて考えてしまう。


これらはあくまでも「生きる楽しみ」であって「何のために生きるか」という質問の

答えにはなっていない

ぶらり散策、海で、プールでひと泳ぎ、ジョギングでひと汗かく

岩場の露天温泉にさえも入れない


少なくとも僕にとってこういった生きる楽しみは一切できなくなってしまった。


振り返って障害者になってからの3年間、最も「生き甲斐」を感じていたときって

いつだろうと考えてみると楽しかったことって友人や仲間と酒を飲んだくらいしか思い浮かばない。


僕は一体何のために生きているんだろう。


もしも手元に100億円のお金が入ってきたら僕はどうするだろう。


生きる目的がはっきりしていたのなら、それに全財産をつぎ込むだろう。


健常者の頃の昔なら、世界中の海にダイビングの旅に受けるかもしれない。

でも今は違う。

そんなことよりただ、ただ眠っていたいとさえ感じてしまう。

そして友人や仲間とお酒を飲んでいたい。

それだけで充分だ。

だから100億円なんていうお金は僕にはまったく必要ない。


そんなものがあっても何の生きがを持つことなんてできないから・・


僕が今一番気持ちが高揚すること

それはちょっとしたことでも「人の役に立っている」と感じることができるときだ。

息子の手の届かないところになる玩具を取って上げることで息子が喜んでくれたら

それだけで嬉しい。 

「息子の役に立っている」という感覚だ。

多分「人の役に立っている」という感覚を最も欲しているような気がする。


多分それは障害者となり人から面倒を見てもらわなければならないっていう立場に

なってしまったという屈辱のような気持ちが心のどこかにあるからだろう。


人の役に立ちたい


今いろいろやろうとしているけれども、やっぱりこの身体ではすぐに限界がくる。

片手しか使えないので書類整理すらまともにできない。

頭の中にはアイデアは沢山ある。

でもそれを実行するための身体が動いてくれない。

それが悔しい。

今、一番生きがいを感じているときは自分のアイデアを人に話しているときかもしれない。


そんとき多少は人の役に立っている感じがする。

そして人との「つながり」を持つことができているときが最も「生きている」感覚を持つことができる


「つながり」を持つためには相手にとって何らかの役に立つ人間となっていると感じることができる

からだろう。

僕の話が役に立つ

僕の話が楽しい

何でも良い

僕とつながっていてくれる人間が存在する瞬間が最も気持ちが高揚している瞬間だ。


だから人の役に立ちたい。


それは人のためではなく自分のためだ。

自分の生きがいを満足させるためだ。

だから僕の身体でできる役に立つことは何でもしたい。

残念ながら僕はもう身体を使って人の役に立つことはできない。

トイレの清掃夫さえにもなれないこの体・・

でも幸い僕は脳出血で知能に障害は受けていないようだ。

だからこの僕の知識や知能が少しでも人の役に立つのであればフル活用したい。

ただそれだけの単純な気持ちでNPO法人の活動をしている。

だから僕はそれができなくなった瞬間に生きることを自らあきらめるかもしれないと感じている。

なぜなら人に対して何の役に立っていない状態で生きている方が死よりも恐いから・・