執 念

昨夜自分のやろうとしていることをある人に伝えたところ、

激しい指摘をされた。

要するに僕のようなレベルでは到底無理であるというような指摘だった。


たしかに僕はそんなに優秀な人間でもないし、身体も障害者である。

専門知識もない。

身体が障害者だからできない

専門知識がないからできない。


だからやらないということには僕はならない。

絶対にやり遂げてみせる。

身体が動かなければ工夫すればよい。

右半分は動くのだから、右半分で全てをできるように工夫すれば良いだけではないか。

知識がなければ知識を習得すれば良いだけじゃないか。

これは僕の執念である。

夢や希望や志というものは、

知識がれば、そして身体が健康であればできるというものではないと信じている。


そもそも夢や希望や志などというものはこれまでに前例のないことばかりではないか。

だからこそ夢であり、希望であり、志なのではないか。

つまり前例がないのである。
だとしたらその志や希望を実現するための知識や経験なんて誰も持っていやしないではないか。

例えばオリンピックで世界新記録を出す選手は、

その身体が世界新記録を出せる身体だから目指すのだろうか

その人が世界新記録を出せるかどうかなんて誰にもわからない

でも「やる」のだ。

今その能力がなければ、そのためにその能力をつけるために勉強し訓練すればよいのだ。

そうしてこそ人間の持つ無限の能力を開花させることができるのではないか

そこに必要なのは「執念」だと思う。

僕が痺れた重い身体を引きずりながら活動をするのは執念以外の何ものでもない。

「何が何でもやる」という執念、そんな心を持つことが夢や希望や志を達成するための力ではないか。

僕は毎日活動のために歩くことすら執念である。

激痛が走る麻痺足でくその一歩一歩全てが執念の一歩だ。


志を実現する執念がなければ途中で歩くことさえ止めてしまうのだろう。

なぜならその執念がなければ痛みをこらえて歩く必要などないのだから、、

何事も実現可能にするのは全て心の執念だと思っている。