無私無欲こそ最大の力

辛いこと、苦しいこと、悲しいこと、怒り、恨みなどの心が生まれる

自分自身に起こったことや身の回りの事象をどのように捉えるかによって、

辛いことも、辛くなかったり、苦しいことも、苦しくなかったり、悲しいことも、悲しくなかったり、

そして怒りや恨みなど気持ちも薄れるものだと思う。

僕の負った障害についても、「障害受容」というような言葉で「現実を受け入れなさい」

「受け入れれば楽になれる」などという人もいるが、

僕はそうでは無いと思っている。

以前の記事にも書きましたが、身に降りかかった究極の苦境や悲しみあるいは憎しみ・恨みなどの

起こる挫折など、生身の人間である限り、本当の意味で受け入れられるわけがない。

そんな悲しみやつらさはきっと一生受け入れることなど出来ないだろう。


そんな「受け入れる」なんていうことを無理にする必要はないと思う。

そんなことをしようと思っても、

人間の心はそう簡単に受け入れることができるものではない。


そうではなく、受け止めることそのものをやめれば良いと思う。


受け止めもせず、受け入れもせず、、心をスルーさせてしまうのだ。


そのためには「無私無欲」のような心が必要なのではないだろうか


僕はそう思い、「無私無欲」になろうと努力している。


自我を極力捨てることができれば、


悲しみや苦しみなどを受け止める自我が存在しないのだからスルーしてしまうと思うのだ。


そうすれば自我のこだわりや思い込みからの怒りや悲しみの心が湧くこともなく、


物事を冷静に見つめ、判断することができるのではないだろうか


無理に受け入れようとする必要は全くないと思っている。


無理に受け入れをとするから心がパンクしてしまい、辛くなったり、

悲しみや怒りも増幅してしまうのではないだろうか


そんな意味で、僕は自分の心に対して「無私無欲」と唱えるようにしている。


そんな意味で考えると、今の管首相は今回の震災や原発事故を馬鹿正直に

受け止めも出来もしないくせに受け止めようとして、心がパニックになり、

判断能力がなくなってしまっているように思える。。

菅首相は実は正直者でまじめであるがゆえに、

苦境や困難をうまくスルーさせることが出来ない人ではないだろうか。

「自分は一国の首相だから全責任で、何とかしなければならない。」というこだわりとか


強烈な自我があるから、苦しくなり、追いつめられ判断力がなくなってしまっているような気がする。

「何とかしなければならない」という気持ちも

「優れた首相でありたいとか英雄のような首相でありたい」というような自尊心のような自我(我欲)があるからだと思う。

そんな気持ちも私利私欲の一つではないだろうか


「自分の身を削って」とか「国民第一」とか言っているけれども、


そんな意味できっと無私無欲ではないのではないだろうか


そんなふうに見ていると可哀想にも思えて来る。



結局は首相の器がなかったのではないだろうか


とさえ思えるのだ。