苦境こそが知恵と工夫を生む。工夫の人生も存外楽しい。

苦境になんて出会いたくない。


順風満帆の人生に越したことはない。


健常者の頃そんなふうに思っていたこともあるけれど、


今は意外とそうでもないのではないかと思ったりしている。


僕は脳出血により中途障害という苦境に陥り一時は無職無収入

という状態だったけれど、だからこそ必死で工夫したと思う。

必死で知恵を使ったと思う。

これまで生きてきた中で、これほどまでに必死に知恵を使い工夫したことは

ないのではないかと思う。

工夫に満ちた人生の案外良いものではないかと思う。

おかげで僕は人間の脳に関してはかなりの知識を得ることができた。

その辺の医学生よりも、いや脳神経科の医師よりも脳に関する知識があるのではないかと感じる

例えば

・脳の損傷するということが人間にとってどういうことなのか。

・脳がどんな働きをし、どうすれば回復するのか。

・回復の限界はどの程度なのか


等々の知識は医師や医学生などよりもずっと深い知識として持つことができたのではないか。


なぜなら、僕は必死だったから・・・

自身が回復することを願い、

必死で脳に関する書物を読みあさったからこそ、実体験も合わせて、

本物の知識として得ることができたように感じている。

そして後遺症による痛みや痺れを取り除くためどうすれば良いか

ということも自分なりに試行錯誤して、ある程度自分なりの対策を見つけることができた。


恐らくこんなことは医学生では出来ないだろう。

自身が苦しいからこそ必死の思いで知恵と工夫を使わざるを得なかったのだ。


そして知識もたくさん得ることができた。


足が麻痺してリハビリをする過程で得た知識のなかで僕にとって最も感動的だった知識は

二足歩行する人間は歩くときも走るときも「必ず踵から着地する」ということを知ったことだ。

これはあまりにも意外だった。

100m走のような短距離走のときでさえ、よく見ると踵から着地しているのだ!

絶対につま先からは着地していない。



爪先から着地なんてすると、つんのめって歩けもは走れもしないのだ。


この知識を知ったときは僕にとっては驚愕と同時に感動ものだった。


新しい知識を得ることは感動的で楽しいものだと思う。


工夫してそれまで出来なかった何かが出来るようになることも感激するものだ。




僕は体の左半分がまともに動かない。


手は右手しか使えない。

だからこそいろんな工夫をした。

そう考えてみると工夫の面白さを知ったような気がする。

出来なかったことが工夫してできるようになったときの喜びはひとしおだ。


人間は苦境だったからこそ知恵を出し、

工夫をすることによって文明が出してきたのではないだろうか。


僕は、片手しか使えないから、二つのものを一緒に持つことは出来ない。

でも健常者だって手は2本しかないのだ。

阿修羅のように6本の手を持っていたら、2本の手では出来ない作業

に対して何の工夫もしなかっただろう。


例えば阿修羅なら、リンゴを6個一度に持ち運ぶことができるだろう。

6人分のカレーライスを一度に持ち運ぶことができるだろう。

だからお盆やトレイなどを使うという工夫はしないだろう。


阿修羅は6本の手の一つが麻痺したら嘆くのだろうか。


6人分のカレーライスを一度に持ち運ぶことが出来なくなったと言って・・笑)


そんなふうに考えてみると、出来なくなったことなんて


工夫さえすれば、知恵さえ使えば


何とでもなるのではないか。

この2年間、僕はいろんな工夫をしてきたと思う。

そんな工夫も、考え方によっては案外楽しいものではないだろうか。

工夫する楽しみを与えてもらったと思えばいいじゃないか。

人間どこまでいっても手は2本、阿修羅のように6本もない。


6本が1本になったではない。2本が1本になっただけじゃないか。

阿修羅だったら、6倍の工夫と努力をしなければならないだろうけど、

僕はたった2倍の工夫をすれば良いだけじゃないか。


人間、苦しいからこそ工夫して知恵を使うのだ。


そこに新しい知恵が生まれる。新しい知識も取り入れる。 


それは素晴らしいことではないか