痛みと闘い、死の恐怖と闘い、そして生きる苦しみと闘う

痛みというやつは厄介なやつだ。

これは医者にとってもとても厄介なものらしい。

本人しかわからないので理解してもらえない(理解出来ない)という難しさがあるという。

一昔前は「痛い」などと訴えると「我慢しなさい」とか「大袈裟だ」などと言って

患者の精神面にこらえるよう「指導?」するしかなかったようだし、

実際に一部の医師は患者に対して「意志が弱い」などという人もいたようだ。

しかしこの痛みというものは我慢にも限界がある

僕自身、中枢性疼痛という脳卒中の後遺症の痛みに毎日悩まされている。

この痛み、実に耐えがたいものである。


この中枢性疼痛というもの幻肢痛というものと同じようなものだという。

幻肢痛とは、例えば事故で腕や足が切断された人が、腕や足が存在しないにも関わらず

その腕や足に痛みを感じるというものだ。

これは脳が(まだそこに失った手足が存在していると)錯覚をしている状態のようなものらしい。

「痛みの元」が存在しないにも関わらず脳が痛みを感じてしまうのだ。

この症状は脳卒中の後遺症の患者によくある症状だと言われる。

つまり脳卒中になって脳が損傷し、痛みを感じる脳細胞が誤作動している状態だという。

この痛みは通常実に苦しい痛みが伴うことが多いらしい。


脳の中の病変で痛みが生じることを初めて報告したのはドイツの有名な医学者で、
100年余り前のことだということだ

その患者さんは視床出血のあと耐え難い痛みにおそわれて自殺した方が出たことで発見されたそうだ。

それほ辛い痛みに襲われるのだ。

「痛み」といってもどう表現すればよいのか分からない。

それで痛みの専門医が書いた痛みに関する本を購入して読んでみた。

やはりそこにも痛みの代表的な例として幻肢痛が紹介されていた。

そこに次のような記載がされていた

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痛みとは言葉の表現としては「痛む」「痺れる」「こわばる」「めくれる」とっいった語感で
表現されるが患者が痛みを訴える本当の心情にどれだけ接近できるか疑問である
激痛の時は叫びであり言葉ではない。医師は痛みは症状だから「痛み」と記載するが、
患者が訴える言葉をありのままに記載すべきではないか
最も問題なことは感じていることは推察の資料にはなり得ても顕微鏡にもCTスキャンにも
表すことは出来ない。医師はそのことに気づかず患者の与える「痛み」をおろそかにしてきたのではないだろうか
堪えに堪えて苦痛が去るのを待つのが患者である。
「我慢が足りない」と叱咤された人もあろう。
体に毒だからといって痛み止め注射をしてもらえなかった人もあろう。
医師には医師の論理があり、患者には患者の論理がある。
しかし痛むことは患者にとって最大の苦痛であり、絶対的苦痛である。
最新の知識や技術を注ぎこんだとしても、医者の一片の言葉の端が患者の心に突きささったならば
その努力は泡沫に帰してしまう
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まさしくその通りだ!

ここまで考えている人(医師)がいたとは驚いた。

僕はこの2年半、中枢政疼痛に悩まされているが医者に訴えることはあきらめている。
だって痛みを訴えても何の解決にもならないからだ。
無視されるわけではないが医者の反応から「手の打ちようがない」という意志を感じてしまうからだ。

ならばなぜこのブログで僕は訴えるような記事を書いているのだろう。

誰かに共感してほしいのだろうか。

経験のない人に共感は出来ないだろう。

だから日常は人に会っても、家内や息子に対しても苦痛を訴えることはない。

無理をして笑顔を作ってしまう。

なぜなら苦痛を訴えたところで、相手が困ってしまう事が明白だから・・

僕の苦痛の叫びを聞いてしまうとたぶん辛くなってしまうだろうから・・

でもなぜか今こうして書いている。

自分でも分からないが誰かに訴えたいのだろう。


幻肢痛の存在については大昔から医師は気付いていたそうだ。


アメリカ人の神経学者の本に次のようなことが書いてあった。
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どこからやってくるのかわからない激痛がずっと続く、、という症例は昔から枚挙に暇がない。

痛みが生じる場所をたどるにもそこに到達出来ないのである。英国国海軍のネルソン提督は
1797年サンタクルス・デ・テネリフェの攻撃で右腕を失った。
それからすぐに彼は存在しないはずの腕が存在しているとはっきり感じるようになった。
感覚はあるのに姿が見えない幻肢の症状である。
ネルソンは腕が見えないのに腕があると感じるのは「魂が存在する直接的な証拠」
と結論づけ、失われた腕が存在できるのなら、肉体が消滅してもその人の魂は存在し続ける
だろうと考えた。
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実に面白い考察だ。

現在ほど脳科学が発展していない当時ならそう考えても当然だろう。

幻肢がやっかいなのは必ずと言っていいほど猛烈な幻肢痛を伴いその痛みは生涯消えないらしいからだ。

そして現代ではネルソン提督のように魂が存在するからではなく脳の「誤作動」が原因だと

突き止めているにも関わらず、明確な治療法がまだないようだ。

末梢神経の痛みと違いモルヒネなどの通常の痛み止めは全く効かない。(この現実は辛い)

通常の痛みであれば痛みのある箇所を診察して原因を突き止め取り除けば良い。

しかし、痛みのある箇所が存在しないのにどうすればよいのか分からないというのが現実だ。

にも関わらず痛むのだ。


僕の場合、突然左手の親指に左手の人差し指がめり込んでいるような激痛を感じる

あまりの激痛に左手の親指を見てみると人差し指がちょっと触れているだけなのだ。

自分で驚愕するのである。

一体どうすればよいというだ。本当に人差し指がこれめり込んでいるのであれば、

すぐに病院に行って「めり込んでいる人差指」を抜いてもらえば良い。


でも、そんなことは起こっていないのだ。



脳を患うということはこういうことなのだ。脳の知覚が異常を起こすということは

人間にとって恐ろしいと思う。耐え難い苦痛に見舞われる。


しかも周りからは何が起こっているのかまったく見えないのだ(自分でも見えないのだ)

何も起こっていないのに苦痛に顔を歪めていたら「頭がおかしい」のではないかと思われるだろう


そう!頭がおかしいのだ!脳が・・!

その痛みは「イカれた脳」によって作り出されるのだから・・


この不可解な苦痛をどうやって取り除けばよいのだろうか。


僕に大きなヒントをくれたのは「脳=心」という考え方だった。

「脳=心」という考え方は「信仰深い人」にとっては受け入れがたい考え方だろう。

僕がこの考え方を受け入れたのは(これもアメリカ人の神経学者の著書だけれども)
次のような記載からだ・・
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ハーバード大学医学部門内の磁気刺激研究室のTMS装置では脳のシナプスの発火状態が
映し出すことができる。センター長のパスカルーレオーネはTMS装置を利用して
脳の運動野のマッピングの実験を行った
人間の「想像」という心の作業によって脳にどのような変化が起こるか実験したのだ。

------------中略------------

こうした「想像力」の実験から分かるのは、想像と行動が一体化しているということだ。
私たちは想像と行動は全く違う規則に従っていると考えがちだ。
実験の結果、「ある行為」をするときの運動脳の運動プログラムと感覚脳の感覚プログラムが
「その行為」を想像するときにも働いていることが分かった。「実体のない」想像が全て
実体のある脳に痕跡を残すのだ。この実験結果によってフランスのルネ・デカルトの提唱した
「心身2元論」を覆されたのだ。「心身2元論」では精神(魂)と脳はまったく別物であり、
別の法則によって支配されているとされている。この理論から生じた混乱は数世紀続いてきた
が、それが覆されることになったのである。デカルトによれば、脳は物質であり、実体があり
、物理法則に従う。一方精神(デカルトは魂と呼んでいた)は思考するものであり、想像する
ものであり、空間を占めることもなければ物理法則に従うこともない。

そして思考は理性や判断、欲望の法則に支配され、因果関係のある物理法則には従わない。
ヒトはこの二元(物体と心)から成り立ち、実体のない精神と実体のある脳が結びついたものである

これがデカルトの理論だった。

ただ、デカルトの理論では実体のない精神が実体のある脳にどのようにして影響を及ぼすのか
納得のいく説明が出来なかった。それなのに彼の「心身2元論」は400年ものあいだ科学の
世界を支配してきた。その結果、人々は実体のない思考や単なる想像が実体のある脳の構造を
変えてしまうことなどあり得ないと考えるようになってしまったのだ。デカルトの理論が精神
と脳に埋められない溝を作ってしまったようである。デカルトの時代には脳は神秘主義的に使
われていた。高邁なの目的もと、神秘的だとされていた脳を機械的に扱うことによって解決し
ようとしたがそれは失敗に終わった。デカルトは脳は自力では動かない生命(魂)のない機械
であるとし、その中に実体のない亡霊のような「魂」が宿ることによってのみ動くことができる
としたのだ。こののちに「機械の中の亡霊」と呼ばれるようになった。「機械的な脳」という
説明を試みたデカルトはその生命を抜き取ってしまった。その結果、脳は自力で動き自己再生
する力があるという考え方(現代医学では「脳の可塑性」と呼ばれている)を受け入れられる
のを遅らせてしまった。その結果、脳科学は大幅に進歩を遅らせてしまったのだ。
つまり、想像や思考などという精神の動き自体に実体のある脳に実体を残していると理解される
まで時間がかかってしまった。
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この記載から僕は「脳=心=魂」であるという考えに確信を持つに至ったのだ。

そこから僕は考えたことは「痛みは損傷した脳が作っている」というのであれば

「痛みは損傷した心が作っている」ということになるではないか。


そう考えること損傷した心を治療することによって痛みを取り除くことができるのではないかと
考えたのである。

つまり心を修復することによって物理的な痛みさえも取り除くことができると考えた。

そしてそれをあらゆる方法で試してみようと思った。

その一つが「感動すること」であった。


感動する小説や本を読みあさり、感動する映画を探して鑑賞しまくった。

その結果、感動の涙を出したとき、中枢性の痛みが和らぐ感じがした。

ズバリ的中した!と感じた。

そして今、僕は、心も修復する最大の薬は

(この言葉を言うのは歯が浮きそうな気持ちになるが)愛だと思っている

なぜなら僕は息子が笑顔で僕に「いっしょにに遊ぼう」と無垢な心で

近くにいるとき、笑い声を聞いているとき最も痛みが和らいでいる感じがしている

いや、確実に和らいでいると思う。そこには父子の間の愛を感じるのだ。

モルヒネも効かないという激痛に「愛」が効くのだ!

【僕の息子の無垢な表情と笑顔です】

$まだ俺は生きている!脳出血で半身不随になった元IT系社長の勝手気ままな独り言日記
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$まだ俺は生きている!脳出血で半身不随になった元IT系社長の勝手気ままな独り言日記-笑顔



愛こそすべて」という歌ではないけれど、本当に人間は心こそ全てだと感じている。

心の持ち方によって癌さえも撃退するのではないかとさえ考えている今日この頃だ。

それは決して、根拠のない正しい行ないをすれば、愛があれば、神様や守護霊が

助けてくれるなどといういい加減なものではなく、僕の中には上記のような

はっきりとした論拠を持っているのだ。

だからこそ、この僕の信念を曲げたくないのだ。


僕は今この苦しい痛みや痺れと闘いながら生きている。

これは生きる苦しみだと思っている。そして61.1%という再出血のリスクを抱え、常に
「死」というものが目の前にぶら下がり、ある意味「死の恐怖」とも闘いながら

生きているつもりだ。

だからいつまで生きていることができるか分からないけれど、


それでも「愛」によって心を修復する努力をし続ければ苦しみを乗り越えることができ、

有意義な人生が送れるのではないかと考えている。


そして死ぬ時には必ず笑顔で死ぬ!