人は殺されでもしない限り、どんなに苦しくても生きなければならない。


人は殺されない限り生きなければならない。

人は殺されでもしない限り、

どんなに苦しくとも生きなければならない宿命なのだ。


どんなに苦しく痛い病気になろうとも、

その苦しみがどんなに続こうとも
今回の震災の多くのく被災者のように

愛する人が死んでしまって

路頭に迷うような苦境に陥り

孤独で、

孤独で、

不安で

不安で

それほどまでに孤独で苦しくても


生きなければならない。

それでも自ら死を選ぶことは基本的に許されないのだ。


「生きることは尊いことだからぬのはいけない」とか

「命は大切だから生きなければならない」などと


分かったようなことを言う人もいるが、


生きるということはそんな生易しいものではないのだ。

どんなに苦しくても生きさせられるのだ。

僕も脳出血を患い、半身不随という障害者になったことによって、

多くのものを失い苦しんだ。

自分なりに

苦しんで

苦しんで

苦しみ抜いた。

会社も破産して、自己破産もして、築き上げてきたものを何もかも失った

そして体の多くの機能を失ってしまった。

そのため普通の仕事に就くことも出来ず、無職無収入という絶望的な状態に陥り、

未来が全く見えない状態だった。

その上延々と続く後遺症も猛烈な痛みと痺れに一分一秒延々と耐え続けなければならなかった。

誰にもわかってもらえない痛みにひとり堪え続けるというのは実に孤独である

苦しくて

苦しくて

そして街に出たときは出たときで、自分が障害者であることを思い知らされ、惨めな気持ちになる苦しむ

生きることがこんなに苦しいものがいっそ死んでしまいたいと何度思ったことか。

それでも自死することは出来なかった。

なぜなら僕はいつも正気だったからだ。

人間は正気だと自死することなんて出来ないと。

自死するときの人間の心は狂気の状態だと思うのだ。


うつ病やノイローゼが原因で自死する人がいるが、自らの命を断つ瞬間は狂気の瞬間だと思うのだ.

正気であれば人間の絶対に自死することなんて出来ない。他人様を殺すことなんて出来ない。

戦場の兵士たちは狂気に満ちているからこそ殺し合うなんていうことができるのだ。

正気だと自分を殺し、人を殺すのにということは出来ない。正気だと死を怖れてしまうからだ。

しかし正気だからこそ、それ(自死)が出来なくて生きる苦しみを味わなければならないのだ。

僕も正気だからこそ、自分の置かれている状況を正確に把握してしまい、惨めな気持ちにもなり、

街に出る度に悔しい思いをし、絶望感に苛まれるのだ。

そんなに苦しいのに正気だからこそ自死することさえ出来ない。

人は殺されでもしない限り、事故死でもしない限り、

どんなに苦しくても生きなければならない宿命なのだ。

自死など出来ないのだ

自死出来ないからこそ、余計に生きる苦しみを味わってしまうのだ。

生きさせられているのだ。

そして何が何でも生きなければならない宿命だからこそ、

そこにだからこそ生きる意味を見出さなければならない。

生きる意味を見い出すことが出来なければ、あまりにも苦しすぎるのだ。


それは残酷なくらいに・・


人は健康なときや順調なときには、満足を求め、あるいは快楽を求める。

しかしいったん病気などになったり、苦境に陥ったときには、

そんなものは求めない。


ただ苦痛や苦境に耐え、それが去ってくれることだけを望むものだ。


それほどまでに苦しい生き方をしなければならないとき

自分は何のために生きているのだろうかということを考えざるを得ない。

苦しむために生きているのか?

再出血による死亡確率が61%の僕はこの先そんなに長くないと覚悟している。


そんなことを考えるときに思う。

僕は死ぬために生きているのか。

苦しんで死ぬために生きているのか

そして僕はたどり着いた自分自身も納得させる生きる意味は

「人とのつながりを持つこと」であり

死の意味は「無」であるということだ。

どんなに苦しくとも生きている限り「人のつながり」を持つことができることが

自分にとっての最大の喜びであることに気がついたからだ。


スポーツも何も出来なくなっても、毎日が不自由な体で苦しくとも。

「人とのつながり」をもつことができている瞬間が最大の生きる喜びなのだ。

そして死は「無」でありたいと思っている。

死とは「人とのつながり」が切れてしまった状態である。


つまり究極の孤独な状態であるのだ。

だとしたら死んだ後も孤独に苦しまなければならないではないか。

そんなのはいやだ。だから死んでしまったときくらい「無」でありたいのだ。