昨日まで東京に出張していたので記事をかけませんでしたが
3日ぶりに書いています
今日は、ある先天性の障害を持たれる方とのメッセージのやりとりで
先天性の障害をお持ちの方と、私のように脳卒中などにより
中途障害を負った人の苦しみの違いいて考えさせられたことについて
そしてさらには病苦や死に対する怖れについて考えさせたことについて
書いてみます。
生きとし生けるものは皆いつか必ず死にます。
この世に存在するものは全ていつか必ず消滅するのです。
形あるものはいくつかは壊れる。
どんなに丁寧に扱っても経年劣化して壊れる
人間も同じ。
どんなに健康に気をつけようがいつかは必ず死ぬ。
例えば宇宙の星なども生まれた瞬間から消滅に向かっている。
それは大宇宙の原理でもあり、誰にも変えることのできないものだと思います。
命も生まれた瞬間から消滅に向かって進んでいるす。
誰にも必ず死は訪れます。
死ぬことは人間にとってある意味「当たり前」のことなのです。
そして死ぬ原因は病気が怪我のどちらかです。
それ以外の原因は無いわけです。
老衰という死があるのではないかと言われる方がおられるかもわかりませんが
老衰にしても実際には亡くなる1~2週間前には肺炎などを併発するケースも多いそうです。
そこで死因を「肺炎」とすると、「老衰」が主体であるのに、それが覆い隠されてしまうので死因は
「老衰」となるそうです。
だとしたら、全ての人間はいつか必ず死に至る病か怪我を負うことになるわけで、
それは決して「特別な」悲劇ではなく、人間にとって「当たり前」のことだと思うのです。
にも関わらず、不思議なことに(私も含めて)ほとんどの人間は日常において、そんな災難(死に至る病や怪我)
自分の身に降りかかるとは思っていなくて、いざ自分の身に降りかかってしまうと(自分だけ)不幸だと感じてしまう。
そんなふうに考えると、僕が脳出血を起したことも人間にとって「当たり前」のことで何も特別なことではない
と最近思うのです。
この「当たり前」という感覚が最近の僕が記事に書いている「自然の摂理」を意味するものです。
全てこの大宇宙の原理原則によって起こる現象であって「当たり前」だと感じるのです。
そしてそれは決して神様の罰というようなものではなく、やはり自然の原理に過ぎないのだと思います。
人間はそれに逆らおうとして逆らうことが出来なくて苦しむのだと思います。
今回の東日本大震災についても同じようなことを感じています。
地震が起こることは太古の昔から地殻変動を続けている地球の歴史をみると「当たり前」のことなのです。
地球温暖化という問題にしても同じようなことを感じます。
これも人為的な工業化が起こしたものと考えるのではなく、大自然の原理の現象の一つにすぎないのかもわかりません。
にも関わらず、人類はこれを防止しようとして防止出来ず苦しんでいる。
「人類が再生可能エネルギーを駆使すれば防止できる」ということ自体人間のおごりではないかと感じるのです。
人が死ぬことも病気になることも自然の摂理の一つ。
その自然の摂理に逆らおうとして逆らうことが出来ずに苦しむ。
これが人間の悲しいところではないかと感じるのです。「自然の節理に逆らう」こと自体人間のおごりではないか
医学も科学も、もしかしたら人間の奢りの象徴ではないかと思うことがあります。
その「奢り」が人間を苦しめるのではないだろうか。
そしてなぜか人間は「喪失」することに対して酷く怖れます。
形あるものはいつかは壊れる、つまり喪失してしまうのだ。
私はいわゆる「中途障害者」ですが、先天性の障害を持つ人は昔と全く違う苦しみ方をすると思うのです。
私の場合、やはり「喪失感」にかなり苦しみました。
それは体の機能の喪失です。
それまで当たり前にできたこと、たえとばお茶碗を持ってみそ汁を飲むとかお茶漬けを食べるとかい極些細なことですが、
そんなことが出来なくなってしまったことが最も僕を苦しめたのです。
僕は20年近くスキューバダイビングを趣味としており、普通の人では行かないような海に潜ったりしましたが、そんなことが出来なくなることの苦しみは大したことではなかったのです。
「当たり前にできたこと」あるいは「普通の人なら当たり前にできること」が出来なくなったことの方は強烈な「喪失感」を感じ苦しみました。
これがあの「五体不満足」の著者の生まれつき両手両足のな乙武さんの場合、僕のような「喪失感」という苦しみはなかったのではないかと思います。
確かその著書にも本当の気持ちかどうか分かりませんが
「自分は生まれながらにしてこの体だったので、それが当たり前であったので、そのこと自体につらいと思ったことはなかった」
というような記載があったと思いますが、
昔読んだときに「なるほど」と感心したことを覚えています.
つまり乙武さんには僕のような「体の機能の喪失」という体験は無いわけです。
「それまでできていたことが出来なくなる」という体験は無いわけです。
「喪失」は「所有」するから起こるものだと思います。
「所有」していなければ、もともと存在しないわけですから「喪失」することも無いわけです。
例えば「子供が生まれる」ということなどは典型的な親にとって「愛する命の所有」です。
皮肉なことですがそんな所有をしてしまうから「喪失」する可能性が出てきてしまう。
そして処理を「喪失」することも怖れ、実際に「喪失」すると苦しんでしまうのです。
喪失すること自体、自然なことであるにも関わらず、、
最近、自然の摂理を受け入れるということは
「喪失すること」つまり「死」を受け入れることに等しいのではないかと思うのです。
3日ぶりに書いています
今日は、ある先天性の障害を持たれる方とのメッセージのやりとりで
先天性の障害をお持ちの方と、私のように脳卒中などにより
中途障害を負った人の苦しみの違いいて考えさせられたことについて
そしてさらには病苦や死に対する怖れについて考えさせたことについて
書いてみます。
生きとし生けるものは皆いつか必ず死にます。
この世に存在するものは全ていつか必ず消滅するのです。
形あるものはいくつかは壊れる。
どんなに丁寧に扱っても経年劣化して壊れる
人間も同じ。
どんなに健康に気をつけようがいつかは必ず死ぬ。
例えば宇宙の星なども生まれた瞬間から消滅に向かっている。
それは大宇宙の原理でもあり、誰にも変えることのできないものだと思います。
命も生まれた瞬間から消滅に向かって進んでいるす。
誰にも必ず死は訪れます。
死ぬことは人間にとってある意味「当たり前」のことなのです。
そして死ぬ原因は病気が怪我のどちらかです。
それ以外の原因は無いわけです。
老衰という死があるのではないかと言われる方がおられるかもわかりませんが
老衰にしても実際には亡くなる1~2週間前には肺炎などを併発するケースも多いそうです。
そこで死因を「肺炎」とすると、「老衰」が主体であるのに、それが覆い隠されてしまうので死因は
「老衰」となるそうです。
だとしたら、全ての人間はいつか必ず死に至る病か怪我を負うことになるわけで、
それは決して「特別な」悲劇ではなく、人間にとって「当たり前」のことだと思うのです。
にも関わらず、不思議なことに(私も含めて)ほとんどの人間は日常において、そんな災難(死に至る病や怪我)
自分の身に降りかかるとは思っていなくて、いざ自分の身に降りかかってしまうと(自分だけ)不幸だと感じてしまう。
そんなふうに考えると、僕が脳出血を起したことも人間にとって「当たり前」のことで何も特別なことではない
と最近思うのです。
この「当たり前」という感覚が最近の僕が記事に書いている「自然の摂理」を意味するものです。
全てこの大宇宙の原理原則によって起こる現象であって「当たり前」だと感じるのです。
そしてそれは決して神様の罰というようなものではなく、やはり自然の原理に過ぎないのだと思います。
人間はそれに逆らおうとして逆らうことが出来なくて苦しむのだと思います。
今回の東日本大震災についても同じようなことを感じています。
地震が起こることは太古の昔から地殻変動を続けている地球の歴史をみると「当たり前」のことなのです。
地球温暖化という問題にしても同じようなことを感じます。
これも人為的な工業化が起こしたものと考えるのではなく、大自然の原理の現象の一つにすぎないのかもわかりません。
にも関わらず、人類はこれを防止しようとして防止出来ず苦しんでいる。
「人類が再生可能エネルギーを駆使すれば防止できる」ということ自体人間のおごりではないかと感じるのです。
人が死ぬことも病気になることも自然の摂理の一つ。
その自然の摂理に逆らおうとして逆らうことが出来ずに苦しむ。
これが人間の悲しいところではないかと感じるのです。「自然の節理に逆らう」こと自体人間のおごりではないか
医学も科学も、もしかしたら人間の奢りの象徴ではないかと思うことがあります。
その「奢り」が人間を苦しめるのではないだろうか。
そしてなぜか人間は「喪失」することに対して酷く怖れます。
形あるものはいつかは壊れる、つまり喪失してしまうのだ。
私はいわゆる「中途障害者」ですが、先天性の障害を持つ人は昔と全く違う苦しみ方をすると思うのです。
私の場合、やはり「喪失感」にかなり苦しみました。
それは体の機能の喪失です。
それまで当たり前にできたこと、たえとばお茶碗を持ってみそ汁を飲むとかお茶漬けを食べるとかい極些細なことですが、
そんなことが出来なくなってしまったことが最も僕を苦しめたのです。
僕は20年近くスキューバダイビングを趣味としており、普通の人では行かないような海に潜ったりしましたが、そんなことが出来なくなることの苦しみは大したことではなかったのです。
「当たり前にできたこと」あるいは「普通の人なら当たり前にできること」が出来なくなったことの方は強烈な「喪失感」を感じ苦しみました。
これがあの「五体不満足」の著者の生まれつき両手両足のな乙武さんの場合、僕のような「喪失感」という苦しみはなかったのではないかと思います。
確かその著書にも本当の気持ちかどうか分かりませんが
「自分は生まれながらにしてこの体だったので、それが当たり前であったので、そのこと自体につらいと思ったことはなかった」
というような記載があったと思いますが、
昔読んだときに「なるほど」と感心したことを覚えています.
つまり乙武さんには僕のような「体の機能の喪失」という体験は無いわけです。
「それまでできていたことが出来なくなる」という体験は無いわけです。
「喪失」は「所有」するから起こるものだと思います。
「所有」していなければ、もともと存在しないわけですから「喪失」することも無いわけです。
例えば「子供が生まれる」ということなどは典型的な親にとって「愛する命の所有」です。
皮肉なことですがそんな所有をしてしまうから「喪失」する可能性が出てきてしまう。
そして処理を「喪失」することも怖れ、実際に「喪失」すると苦しんでしまうのです。
喪失すること自体、自然なことであるにも関わらず、、
最近、自然の摂理を受け入れるということは
「喪失すること」つまり「死」を受け入れることに等しいのではないかと思うのです。