空気のように生きる

僕は今でも1日24時間「障害者」であることを思い知らされている。

でも周囲の人は多分そうでは無いのだろう。
僕も健常者のときはそうだったのだが、体の不自由な人や重い病気で苦しんでいる人を見ても
大変だな、、可哀想だなとその人のことを「思いやる」気持ちになるのはその瞬間だけだった。
でも、いつの間にかその人のことは忘れている。
その人は多分その瞬間だけでなく、僕は忘れているときもずっとずっと苦しんでいたに違いないのだ。
平たく言うと「所詮は他人事」なのだ。

一緒に生活でもしない限り、思いを寄せ続けることはない。

でもその人は僕が見えないだけで、存在し苦しみ続けているのだ。

決して46時中思いやってほしいなどと思っているわけではないのだが(そんなこと不可能だとわかっている)

最近何か「忘れられている」感を感じてしまうのだ。

「忘れられている感じ」=つまり自分の存在が消えている感じ

妻や息子でさえそう感じる

僕を心配してくれている両親でさえもそう感じる

僕が半身麻痺なった当初、周囲はでも気遣ってくれた。

でもそれは「当初」だけだった。

そしてだんだんと「僕は障害者であることが当たり前」という感じになってきているような気がする。

それは仕方のないことだと分かっているのだけれども、なんとなく空虚な気持ちになる。

この不自由な体でどんなに頑張って仕事をしていてもどこか「当たり前」になってきている。

僕自身の中では発症当時と同じで「保保当たり前」ではないのだ。

「意識されていないのではないか」

「そして存在が薄れていくのではないか」

そんな思いに囚われる。

さらにはもう僕を必要としていないのではないか

とさえ感じてしまう始末だ。

自分でもこんな感情は困ったものだと思う。

僕の中の自我が存在をアピールしたいのかもしれない。

そこで考えた。

空気のように生きよう。

空気は人間が生きていく上で必要不可欠のものだ。


にも関わらずその「存在感」はない。


身のまわりに充満しているのだから、変にそういう存在感が強くなると邪魔になるだろう。


別に「存在」をアピールする必要なんてないではないか


決して必要とされていないのではない。

そんなふうに信じて、つまり自分の価値を信じていればそれだけで十分じゃないか。

決して意識ないけれども必要な存在、そんな存在で良いではないか。

誰に評価されなくても自分自身が自分自身の存在の必要性と自分自身の価値を

信じていればそれでいいではないか。


日頃、周りに意識れなくて、邪魔にならず、でも必要とされる空気のように・・・