僕は脳出血を起こし、生死をさまよい障害者になってから、
健常者の頃より死に対する恐れが少なくなった。
ほとんどなくなったといってよいだろう。
なぜ死を恐れるのか。
僕は健常者の頃、死ぬことでいちばん恐ろしいことは「別れ」だと思っていた。
それは「人との別れ」だけではなく、この世にある全ての物との別れだ。
見慣れた景色、住み慣れた家、使い慣れた道具、
死とはそんな僕とつながりのあったモノとの別れをしなければならない
と感じ、その「別れ」が怖かった。
でも今は違う。
「死とは無に戻ること」だと考えるようになったからだ。
この世の全てのものは「無」から生まれた。そして死とは「無」どれだけのことなのだ。
「無」になるということは「魂」さえも残らないのだ。
そもそも「魂」なんて存在しない。心=脳だと考えた場合、脳が損傷あるいは破壊されたとき
心も消滅してしまうのだ。魂も消滅してしまうのだ。
「別れ」が怖いと思うのは生きている証拠だ。魂が存在する証拠だ。
魂が消滅し、心が消滅してしまえば、「怖れ」さえも無くなってしまう。
無になれば苦しむことさえなくなってしまう。
僕は死んでから「魂」などというものが残る方が苦しむと思うのだ。
死んでから残ってしまった「魂」は生きている人との「つながり」を持つことは出来ない。
それは孤独ではないか! そのことの方が苦しむのではないか。
だから(信じている人達からは批判されるかもしれないけれど)
僕は「魂」などという存在も「神」などという存在も否定している
そんなものは存在しない。存在しないからこそ僕は死を怖れなくて済むのだ。
この世の中は僕が死んだ瞬間に消滅するのだ。
いつか誰かがコメントで書いてくれていたけれど、
僕が生きているから僕の世の中が存在する。僕が死ねば僕の世の中も一緒に消滅する
あなたが生きているからあなたの世の中が存在する。あなた死ねばあなたの世の中も一緒に消滅する
そこには魂の何も残らない。ただ無あるのみ。。
だからといって死を選ぶということではない。
喜怒哀楽あるからこそ生きている意味があるのだ。
悲しみも苦しみも生きている証なのだ。
今の僕にとっては死ぬことより生きることの方が苦しいけれど、
生きている周りの人たちをこれ以上苦しめないためにも
僕は生きている限り生きる。
自然の摂理に従って・・
健常者の頃より死に対する恐れが少なくなった。
ほとんどなくなったといってよいだろう。
なぜ死を恐れるのか。
僕は健常者の頃、死ぬことでいちばん恐ろしいことは「別れ」だと思っていた。
それは「人との別れ」だけではなく、この世にある全ての物との別れだ。
見慣れた景色、住み慣れた家、使い慣れた道具、
死とはそんな僕とつながりのあったモノとの別れをしなければならない
と感じ、その「別れ」が怖かった。
でも今は違う。
「死とは無に戻ること」だと考えるようになったからだ。
この世の全てのものは「無」から生まれた。そして死とは「無」どれだけのことなのだ。
「無」になるということは「魂」さえも残らないのだ。
そもそも「魂」なんて存在しない。心=脳だと考えた場合、脳が損傷あるいは破壊されたとき
心も消滅してしまうのだ。魂も消滅してしまうのだ。
「別れ」が怖いと思うのは生きている証拠だ。魂が存在する証拠だ。
魂が消滅し、心が消滅してしまえば、「怖れ」さえも無くなってしまう。
無になれば苦しむことさえなくなってしまう。
僕は死んでから「魂」などというものが残る方が苦しむと思うのだ。
死んでから残ってしまった「魂」は生きている人との「つながり」を持つことは出来ない。
それは孤独ではないか! そのことの方が苦しむのではないか。
だから(信じている人達からは批判されるかもしれないけれど)
僕は「魂」などという存在も「神」などという存在も否定している
そんなものは存在しない。存在しないからこそ僕は死を怖れなくて済むのだ。
この世の中は僕が死んだ瞬間に消滅するのだ。
いつか誰かがコメントで書いてくれていたけれど、
僕が生きているから僕の世の中が存在する。僕が死ねば僕の世の中も一緒に消滅する
あなたが生きているからあなたの世の中が存在する。あなた死ねばあなたの世の中も一緒に消滅する
そこには魂の何も残らない。ただ無あるのみ。。
だからといって死を選ぶということではない。
喜怒哀楽あるからこそ生きている意味があるのだ。
悲しみも苦しみも生きている証なのだ。
今の僕にとっては死ぬことより生きることの方が苦しいけれど、
生きている周りの人たちをこれ以上苦しめないためにも
僕は生きている限り生きる。
自然の摂理に従って・・