幸福値

人間にとって幸福とは何だろうか。

現代の経済社会においては幸福=GDP(モノの生産量)モノの豊かさとなっているような気がする。

これからの世の中は経済において「幸福値」というような指標があっても良いのではないだろうか。

僕にとって幸福とは「人とのつながり」だと感じている。

これは確信に近いものがある。脳出血で半身麻痺いう障害を負ったことによって僕が初めて悟ったことだ。

健常者の頃にできたことは、ほぼ全て出来なくなったといってよい。

同時に健常者の頃の「楽しみ」もほぼ全て出来なくなった。

スポーツはもちろんのこと
「のんびりと散歩をする」とか
(歩くということそのものが重労働になってしまった)

「ナイフとフォークでステーキを食べる」とか
(片手しか使えないのでナイフとフォークは使うことが出来ない)

「お茶碗を持ってお茶漬けを食べる」とか

日常のほんの些細な楽しみさえ出来なくなった。

いくらお金を積まれてもこの出来なくなったことをできるようになることはない。

だから僕にとってお金は幸せにつながらない。

今僕がもっとも幸せを感じる瞬間は「人とつながっている瞬間」だ。

だから「人とのつながりの量」が僕の幸せのバロメーターなのだ。

その「人とのつながりの量」とは単に知り合いが多いということではない。

「お互いに信じ合うことができる人」と如何にたくさん接することができているか

ということだ。

「相手を信じ、自分も信じられている」という実感を持つことができるような「つながり」だ。


過去に感じていた「楽しみ」を一切出来なくなった今、そんな実感を持つことができているとき僕は幸せを感じる。


そんな時にはその他には何もいらない。

お金も、ぜいたく品も、海外旅行も、好きだったマリンスポーツも出来なくても幸せを感じることができる。

そんな「つながり」をもつために何が必要なのだろうか。

戦後の日本はいわゆるモノの豊かさを追い求め、いわゆるGDPを指標とする経済成長こそが国民の

幸福につながると考え邁進してきたように思う。

あの松下幸之助水道哲学にしても、モノの豊かさを実現するための哲学だった。

戦後の荒廃した日本から復興するためにはそのような考え方も間違いではなかったと思う。

でもこれからはもっと違う幸福というものを考え直さなければならないのではないだろうか。


何が幸福なのか。

もちろん人によって違うだろう。

でもどんな人でも、どんなに大金持ちでも人間はひとりでは生きていけない。

いくらお金を持っていても一人だと孤独を感じるに違いない。

決してキレイ事ではなく、本当に「お金=幸せ」ではないと僕は思う。


日本がGDPで中国に抜かれてしまった今、もう一度国民の幸福とは何かということを

考え直さなければならない時期に来ているのではないだろうか。

そう考えると今回の福島原発の問題による将来のエネルギー不足に対する

対応まで変わって来るのではないだろうか


エネルギー不足は現代の人間が享受している豊かさ(モノの豊かさ)を享受出来なくなることを意味する。

エネルギー不足を本当に不幸せになるのだろうか。


たとえば大都会の夜の明かり(照明)などは本当に必要なのだろうか。

ダークな夜を人と会話しながら、照明に邪魔されない美しい星空を眺めながら人の会話を楽しむというような

夜の過ごし方も幸せではないだろうか。

テレビは本当に必要なのだろうか

テレビなんてない方が家族の会話が弾むではないだろうか。


もちろん病院などの医療に必要な最低限の電力は必要だろう。


でも、必ずしも必要でない電力の使い方をしている場面も多々あるのではないだろうか。

今回の震災を機会に幸福について、年代の日本人はもう一度考えてみる必要があるのではないだろうか。

経済の指標の中に「幸福値」というようなものを盛り込んでも良いのではないだろうか。


そんなことを考えていると日本の技術力というものを人類の幸福のために

どのように利用すればよいのかということも考えてしまう。

果たして品質が良く安価な「モノの大量生産」のためにだけ利用すればよいのだろうか。

技術力を本当の人の幸福のために使うためにはどうすればよいのだろうか。

技術立国日本はそれを世界に先駆けて見出し、世界に向けて提言する必要があるのではないだろうか