心のパラダイム変換で苦境を乗り切る

パラダイム変換という言葉・・

この言葉は僕にとって実体験そのものだと感じる。


パラダイム変換は「価値観の変換」という意味でよいだろう。

価値観の変換をするとものの見方が変わる

いや変わってしまうのだ。世の中の見え方が変わるのだ。

具体的には

好きだったものが、好きだと思えなくなる。

嫌いだったものが、嫌いだと思えなくなる。

さらには、辛いことも辛いと思わなくなれる

こんなことが起こるのだ

僕は脳出血で、障害者になってしまったことによって

無理矢理、心のパラダイム転換をさせられた。

変換せざる得なかったのだ。

でもその「心のパラダイム変換」ができたおかげで強くなれたと思う。

そしてこの先どんな苦境が来ても乗り切れるような気がする。

しかし心のパラダイム変換をすることは実に苦しいことだ。

なぜなら過去の価値観を捨てる必要があるからだ。

・自分が大切に思っていたもの

・自分がこだわり思っていたもの

・自分のプライド

・自分の生き甲斐

これらのものを全て捨てなければならないのだ。

これらの価値観を捨ててこそ、そこに新しい価値観が生まれるのだ。


僕は「捨てた」のではなく「捨てさせられた」のだが・・


具体的には

半身麻痺いう障害を負ったために

これまでできた一切のスポーツは出来なくなった。

結果としてスポーツをすることに対して喜びを感じることは許されなくなった。

スポーツをして汗をかくということに価値を感じてはいけないのだ。

そんなものに価値を感じていると、それが「出来ない」ことで苦しまなければならないからだ。

さらに息子と外で遊ぶことも出来なくなってしまった。

息子とキャッチボールも出来ない。

そんなことに父親としての価値を感じてはいけなくなったのだ。

先日も近所の少年野球のコーチをしている人が僕の息子を相手に、

ピッチャーをして息子にバッティングを教えてくれていた。

それを見たとき、「それは僕の役割だ!」などと思ってしまった。

まだそういうことに価値を感じている証拠だ。

だけれども、この2年間でかなりの価値観が変わったと思う。


たくさんの過去に感じていた価値を捨てたような気がする。


その代わりに新しい価値観を手に入れたような気もする。


最近のなかの景色が違って見えるのだ。

電車の中から見る街の風景がこれまでとは違って感じる


たとえばモニュメントのような人工的な造形物を見ても、


過去には美しいと感じただろう人工的な造形物に魅力を感じなくなった。

そして一本の木や何気ない河原の雑草の風景がとても美しく感じる。

人工的な造形物を見ても、

以前はいつまでもその場所に存在するように感じていたけれども

今はなぜだか「いつか壊れるもの」と感じるのだ。

しかし河原の雑草は毎日刻々と(雑草の成長や枯れによって)姿を変えてはいるが

そちらの方が「永遠の存在」のような気がする。


毎日姿を変えているけれど、だからこそ生きている美しさを感じる。

世の中の、自然の諸行無常を感じる

諸行無常だからこそ美しい。


そして全ては変わるのだということに気付くのだ。

だから自分の価値観も変わって当然なのだ。

世の中が、そして自分自身(僕の場合自分の体)も諸行無常で刻々と

変化しているにもかかわらず、自分の価値観を変えないから苦しむのだということに気づく。


過去を忘れなければならない。

過去の価値観は捨てなければならない。


しかし人間は「喪失」というものに異様なほど恐れを感じるものだ。


しかし形あるものは全ていつかは壊れるか喪失するのだ。


そしてその後に次々に新しいものが生まれて来るのだ。


だったら過去の価値観なんて捨ててもいいじゃないか。


そんなことに気づく。

捨てる事を恐れ苦しんでいる事の方がおかしいのではないか

捨てることによって新しい価値観が生まれる。

そう考えれば良いではないか。

それこそが心のパラダイムの変換ではないだろうか

それができれば、人生において苦しむことなどほとんどなくなるのではないか

心のパラダイム変換ができたとき人は本当に強くなれるのではないだろうか

僕自身障害者になってしまったことによって少しパラダイム変換というものができたかな。。

少しは強くなったかもしれない。