懸命に働くこと、仕事こそが魂を磨くことができ心を強くすることができる方法だ。

懸命に働くことは尊い

仕事こそが人間の魂を磨くことができ、心を強くすることができるのではないか。

お釈迦様も悟りの境地に達するための修行法の一つとして「精進」することの大切さ
を説いています。

精進とは、一生懸命働くこと、そしてわき目もふらず打ち込むことだと思います。

仕事こそが、自分の魂を磨く方法だと思う。

仕事とは英語でWORKと書く。

WORKとは「作品」という意味でもある。

仕事は自分の「作品」なのだ。
そしてその「作品」が人々に役に立つものであれば

あるいは価値のあるものであればこそ人々からその対価をいただけるのだ。

「作品」というと、芸術家の専売特許のように思うかもしれないけれど、

どんな仕事も、その人にとって「作品」なのだと思う。

レストランのウェイターやウェイトレスの仕事だって「作品」だと言えると思う。

「お客様が本当に満足するような素晴らしいおもてなしができる」という「作品」
を作ることをできるのではないだろうか
そんな素晴らしい「作品」を作ることのできるような仕事ぶりであれば、

人々は価値を感じ、たとえ高価であってもその対価を払うことを厭わないであろう。
労働というものはそんな尊いものではないだろうか。

その人間の働き様そのものが「作品」と考えられないだろうか。

一般的に労働というと、生活するための糧や報酬を得るための「手段」であり
なるべく労働時間は短く給料は多い方が良いというような考え方の人が
多いのではないだろうか

これではまるで生きるための必要「悪」になってしまう。

労働とはもっと崇高で価値のある人間を磨くための行為ではないだろうか

そして自分自身を「作品」として世の中に打ち出す唯一の方法であり、

自分自身の価値を試すた修行のようなものではないだろうか。

昨今、非正規労働という雇用形態に対して、

企業に対する批判が多く見受けられるけども

その労働者が懸命に働き、自分自身の労働を「作品」として磨きあげる
ような仕事の仕方をするのであれば経営者は、決して非正規雇用
などにはしないだろう。
僕ならそんなに素晴らしい「作品」を作ることができる労働ができる人
であれば何が何でも正社員として雇用したいと思うだろう。

非正規労働や派遣社員などの労働形態に対して、企業側を批判する
風潮があるが、表面的な雇用形態だけをとらえ批判しているだけで、

本質がずれているようで何か的はずれのような気がする。

仕事こそ、労働こそ「自己実現」のための尊い行為ではないだろうか

あの有名な二宮尊徳は貧乏な家庭に生まれ、育ちも貧しく、学問もない一介の農民

だった。彼は、鋤一本と鍬一本で朝暗いうちから、夜は空に星が瞬くまで田畑に出て、
ただただ懸命にひたすら働いたという。
それだけのことによって、疲弊した農村を次々と豊の村に変えていくという。偉業を成し遂げ、
徳川幕府に登用され殿中にまで招かれ、幕府の財政までも任されるようになったという。
全く教育など受けたことなかったに二宮尊徳だが、その立ち振る舞いは威厳に満ちていた
と言われる。

これは、村のため家族のために懸命に働き続けた結果、自然と魂が磨かれ

それが威厳もある立ち振る舞いとなって現れたのではないだろうか。

いわゆる「オーラ」のようなものに満ちあふれていたのではないだろうか


だからこそ僕は障害者になった今も労働を続けたい。

今の自分にでき得る限りのことを最大限努力したい。


そこからこそ「自分の価値」を見いだせると思うからだ。


そうしているときこそ「生きている実感」というものを感じることができるからだ。

障害者だからといって福祉施設で介助を受け続けるような生き方は

どんどん歳をとっても絶対にしたくは無い。


仕事や労働は自分が役に立つ人間かどうかを試し、挑戦するための土俵だと思う。

さらに仕事だけでなく自分の生きざまそのものが自分の「作品」だと思うようにしている。

どんなに辛いことがあっても、それは「私の人生」という「作品」の一部なのだ。

その辛いことや襲ってきた苦境とどう立ち向かい乗り越えるか。
それとも乗り越えられないか。乗り越えられないにしても、
どのように振る舞うことができるかによって、「僕の人生」という「作品」の価値が決まる
のではないだろうか。

辛い事や苦境だけでなく憎い人や自分の敵の存在なども、それに対して、
どのように向かい合うのか、その振る舞いによって、「自分の人生」の
価値が決まり、乗り越えようともがき苦しむこと自体によって、
人間が、魂が磨かれるではないだろうか

そんなふうに考えると苦境が苦境でなくなってしまうような気がする。

もちろん労働も辛いものではなくなってしまう。

労働とは、仕事とは、自分の魂を磨くための砥石のようなものではないだろうか。

労働や仕事こそが、自分が社会に役立つ人間であるかどうかを見極める方法でもあるのだと思う。

自分がまだ役に立つ人間であり続けたいと思うからこそこんな体でも懸命に働きたい。