日本人一人一人はすばらしいのになぜ日本の政治や官僚や大企業はこれほどまで愚か行動しかできないのか

日本人一人一人はすばらしいのになぜ日本の政治や官僚や大企業はこれほどまで愚か行動しかできないのか


今回の東日本大震災の政府の対応や東京電力の対応を見ていると、とても不思議に思う。

今回の大震災になって、日本人一人一人は、実に冷静に行動し、礼節を崩さず秩序のある迅速な
避難行動ができたと思う。

そんな点から世界から日本人の民度の高さについて称賛されている。


にもかかわらず、日本の政治や官僚や大企業となるとなぜこれほどまで愚か行動しかできないのだろうか。

日本人一人一人は素晴らしいのに・・である


僕はその最大の原点は戦後のアメリカ流の押しつけられた民主主義やアメリカ流の会社組織や
官僚組織に問題があるのではないかと感じています。

簡単に言うと、今の官僚の組織形態や政治形態では、日本人が本来持っている仕事に対する「誇り」や
「名誉」というものを発揮できないようになってしまっているのではないかと思う。

東京電力の場合でも、社員一人ひとりが自分の仕事に対して「誇り」と「名誉」を持って取り組んでいれば、
こんな事態にはならなかったのではないかと思っています。

仕事に対して「誇り」と「名誉」を持って取り組んでいれば、仕事上で問題が生じたとき、
自らの責任で「誇り」と「名誉」のために自ら危険を冒してでも最善を尽くすはずだと思う。

日本人が本来持っている「誇り」や「名誉」を維持できない組織や仕組みになっているのではないだろうか

アメリカから来た「合理的」な組織形態というものは。「合理的」であるがゆえにその組織の人間は単なる
「歯車」でしかなくなってしまう。

そうなってしまうと仕事上で自分の「誇り」や「名誉」を見つけることができなくなってしまう。
その結果、「ミスを恐れるようになる」
「リスクを取らない」ようになってしまうのではないか

「誇り」や「名誉」を見つけることができない仕事に自らのリスクを負うようなことができるはずがない。


たとえば日本料理の料亭などの徒弟制度の組織では、大将とで弟子は「絶対服従関係」であるけれども、

いずれ弟子は、その中から自分の料理に対する「誇り」や「名誉」を見つけ出す。

だから妥協のない仕事をすることができるようになるのだと思う。
そのようになってから、親方は弟子を一人前と認めのれん分けし自主独立させる。

一見理不尽な親方の独裁による組織に見えるがこのような昔からの日本の仕事の仕組みが、
弟子(社員?)に仕事に対して「誇り」や「名誉」を持たせることができることができたのではないだろうか


それに対してアメリカ的な合理主義的な組織では社員は歯車でしかない。
歯車の役割さえしていれば楽に生きていける。そこには仕事に対する名誉も誇りもない。

日本の中堅中小企業においては、まだまだ昔ながらの徒弟制度のような仕事の仕方をしている
ところが多々ある。だからこそ、日本のエンジニアは、自らの仕事に「誇り」や「名誉」をもつことができ、世界最高の技術をもつことができているのであろう。

大企業になればなるほどそして株式上場などしてしまうと株主重視などというアメリカ的な資本主義的
考え方から、アメリカ的企業組織にならざるでなくなってきて、そこで働く社員はどんどん歯車化していくのではないだろうか



政府や官僚組織にも企業の組織と同じような側面があると思う。

その原因の大きな問題点としてアメリカに押しつけられたことによって、歪んでしまった民主主義があると思う。(戦前には日本らしい日本独特の民主主義が存在していたがそれはアメリカの占領政策によって完全に破壊された)

アメリカ的民主主義とは簡単に言うと国民の意見を反映するために選挙をして多数決によって物事を決めることが民主的だとされる感じている。

ここに仕事の「責任の所在」もしくは「誇り」や「名誉」を持って仕事をするという姿勢の欠如の根本原因が、
あるのではないかと思う。


とくに現総理大臣の管さんは市民運動家出身である。

市民運動の問題点は、大局的な視点から物事を見ることができでないことである。
今回の原発反対運動にしても、目先の「放射能が漏れ強い」ただそれだけの非常に狭い視点
からの反対運動であり、将来を見据えた大局的な見地からものを見ることができていない。
これが市民運動の最大の問題点であると思う。

そして市民運動家出身の管首相のリーダーシップのなさもここにあると思う。
管首相は今回の原発事故発生時に東京電力に乗り込ん怒鳴りちらしたと聞く。
一国のリーダーとのものが「怒鳴りちらす」とは情けない
怒鳴り散らしたってどうなるものでもないではないか。

それでは人は動かない。

人が適切に動くことをできるように指示するのがリーダーシップというものではないか。
動けていない人がいれば、なぜその人が動くことができていないのかを洞察し、
さらには部下が仕事に対して「誇り」や「名誉」を持てるようにすることこそが、
リーダーの役割ではないだろうかと思う。
その結果、その人が仕事にこいと責任を持って積極的に動くように、そして動くことができる
ように適切な指示命令を下すのがリーダーの役割だ。
怒鳴り散らすということは、管首相自身が何も考えることができていない証拠だと思う。
誰がどう動けば良いのかまったく認識できていなかったのではないだろうか
リーダーたるもの、現場レベルですべてが見えている必要があると思う。
そして危機管理時には、誰がどう動き、何をどうしなければならないのかを
完全にイメージで来ている必要があると思う。

市民運動家にありがちな下の意見を聞いてボトムアップで組織を動かすという発想ではないだろうか
「民衆の意見を聞く」という耳ざわりが良い言葉で自分が何も考えていないことを隠しているように思える。
そんなことだから、だから「ボトム」の人たちが何もできないと腹が立つのである。
ある意味で「ボトム」の人たちに責任押しつけているようにしか見えない。
まさに衆愚政治であると感じる。

管首相は、以前から「熟議」という言葉を使って、「議論をしよう」「議論をしよう」としきりに言っているが、


僕は結論は出ない衆愚な議論などというものは無意味だと思っています。
時間の浪費であり国会議員の給料の無駄遣いだと思う。

議論など必要はない。

自らが緻密且つ具体的な政策を打ち出して、それに対して、反対か賛成かだけを問えば良いではないか。

その政策に対して議論などしなくても、国会議員であるならばその政策が必要が不必要かの判断ぐらい
議論などしなくても、自分で勉強して判断できるはずではないか。
議論をしたいということ自体、自らの勉強不足を証明しているようなものだと思う。

いずれにしても今も政府は衆愚政治になっている。この状況は絶対に危険だと思う。

こんな政府や国会になってしまったのもすべては、アメリカに押しつけられた「疑似民主主義」の影響
思う。日本はいまだに戦後のGHQの「日本永久占領」という策略から抜け出せてないのではないか。
政治が骨抜きにされている。アメリカの言われるがままになってしまっている。

日本はこんなことで本当に良いのだろうか