高い欲求水準と無私無欲


全く新しいことを推し進めるときに必要な心構えは高い欲求水準や

目標を達成するための強烈な情念やこだわりのようなものが必要だと思います。

半面、人間の持っている強い情念やこだわりのようなものは心のも視野を狭くしてしまい、

且つ客観的で冷静な判断の邪魔になることが多いと思う。

その意味で自分の(自我の持っている)情念やこだわりのようなものは捨てなければならないと思う。

この「欲求」と「自我を無くす」という相反することをどう考えればよいのか最近考えている。

苦境に陥ったとき、そこから抜け出すためには後(過去)を振り向かず、

ただひたすら無私無欲で前を向いて希望を持って行動することが、新たな道を切り開く源泉になると思う。

自我は怒りや悲しみを生み判断をゆがめてしまう可能性がある。

しかし高い要求水準というものはある意味で「強い自我」が必要だと思う。

自我が必要だが自我をしてなければならない
これは矛盾しているのではないか。
よくよく考えてみるとその「強い自我」というものがどの方向に向けられているかということが
大切なのではないかと思うに至った。

その強い自我が私利私欲に向けられているときが良くないのではないか。

その場合自分本位の「こだわり」とか「情念」となってしまうために、物事の判断をする時に客観性に欠けることになってしまうのではないだろうかと思う。

あくまでも「人の役に立つ」「本当に人の役に立ちたい」という強い自我であれば、そういったことを目的にした強い自我や高い要求水準であれば、「本当に人のように立っているのだろうか」という自問自答をすることができるので、自分の行動に対する客観的な判断が出来るのではないだろうか思うに至っている。
しかし人間というもののは、心の奥底のどこかに私利私欲というものが潜んでいると思う。
人間である限りこの私利私欲を完全になくしてしまうはことは永遠に不可能なのだろう

だからこそ常日頃自問自答することが大切なのではないだろうか。

反対意見に対して謙虚に耳を傾けることができるようにしなければならない。

自分の意見に対して反論が出た場合、どうしても感情的になってしまうのは人情としてある程度仕方のないことだと思う。
瞬間その場でお互いに真意が伝わらず売り言葉に買い言葉というような言い合いになってしまっても
後々素直に且つ真摯に相手の意見に耳を傾け、それを踏まえ自問自答してみると、
反対意見からも得るものが沢山出てくるのではないだろうか。

「社会の役に立ちたい」という強い情念をエネルギーにして、且つ私利私欲からくるこだわりや「自ら作った制約」を断ち切り無私無欲になることができれば本当に強い人間となり、何事も良い方向に進むのではないだろか。

大変難しいことではあるけれども、そんなものを僕は目指したい。

僕は幸い障害者になってしまったことによって、健常者の頃に持っていたような「お金持ちになりたい」
とか「高級車に乗りたい」とかいうような欲求はほとんどなくなっている。
だってそんなものがあっても僕の体の不自由が解消するわけでもない。たとえ高級リゾートに旅行できたとしても、好きだった。マリンスポーツも一切できず、部屋で寝転んでいるくらいしかできないだろうから・・・

そんな私利私欲的な欲求が少なくなってきている自分を感じる。
そしてその結果の中の事象や自分の周りに起こるに事象についてかなり冷静に見つめることができるようになってきているように思う。つまり以前より「怒り」や「悲しみ]や「時々芽生えてくる後ろ向きな気持ち」をコントロールできのようになってきているように思う。

唯一中枢性疼痛の痺れと痛みが強いときだけは、苦しくて、苦しくて、冷静になりきれないのだが・・
身体的な苦痛をコントロールできるようになるにはもう少し修練が必要かな・・