無になることのメリット

昨日書いた「心を無にしたい」という記事について、

無になるより喜怒哀楽がある方が生きている証拠ではないか

というようなコメントを頂きましたが、

僕が無になりたいという意味は喜怒哀楽を感じなくしてしまうことではないのです。

それで「死」と同じだと思います。

そうではなく「私心」を無くしたいという思いなのです。

私心をなくし心を無にすると世の中の事象を素直に客観的に捉えることができると思うのです。
素直になれるということは、ある意味で喜びを喜びとして素直に喜べるから
喜怒哀楽はもっと激しくなるかもしれません。

「心を無する」ということは
「こだわりをなくす」と言った方が良いのかもしれません。

自分の中に、変な「こだわり」があると

楽しいことでも、素直に楽しめなかったり、

素直に喜べなかったりするのではないかと思うんです。


逆に辛いこと逆境なども素直に受け止めることが、正しく捉えることができることによって、

より問題の本質を見極めることができ、結果として解決策が見えてくるのではないかと思います。


私心やこだわりがあるとどうしても偏ったものの見方をしてしまい、

「心の目」を曇らせてしまい、

物事の本質を見極められないのではないか。

その結果苦境の出口が見えなくなってしまうのではないか。

そんなふうに思っています。

だから無心になる方が問題の解決に近道なのではないかと思うのです。


私自身の障害に対しても

「自分は辛い」とか

「なぜ僕だけこんな目に合わなきゃいけないのか」

という気持ちになってしまうと冷静に障害と向き合うことが

できなくなってしまうと感じています。

結果として、リハビリに対する意欲をなくしてしまったり、

自暴自棄になってしまったりするのではないかと思います。

無心になる方が「前向き」になれるのではないかと思うのです。



もちろん「無心」などそう簡単になれるものではないことも理解しています。

あの釈迦でさえできなかったのですから・・

人間である以上永遠に不可能だとも思います。

苦しむからこそ、人間であり
苦しむからこそ、

そこからなんとか脱しようと知恵を使う。

そのときそこで、心を無にして私心なく問題の本質を捉え解決策を考える。


そういう姿勢にこそ、人間の、そして人類の生成発展があるのではないかなどとも思います。