世の中は自分が中心である!

自分が世の中の中心である!

僕はこの世の中は自分の中心で動いていると以前から感じている。

それは利己主義という意味ではなく僕の世界観として自分が中心に存在すると感じている。

以前にも書きましたが僕は脳卒中という経験から魂というものの存在を信じなくなりました。

つまり「脳=心」であるということを実感しているからです。

デカルト以来、心身二元論(簡単に書きますと脳や体は機械のようなもので魂や心とは別物であり
心身に魂が宿ってこそ生命となるという考え方)が一般的な考え方として信じられてきました。

しかし実態のない魂が実体のある脳にどうやって作用するのかということについては、
長い間説明できないままでした。

「脳=心」ということを実感した理由のひとつとして下記の経験があります。

今回、脳の損傷に伴って左半身が運動麻痺したのと同時に、中枢性疼痛のという辛い痛みと痺れに
悩まされました。

この中枢性疼痛と言うのは、麻痺した側の手足に特に異常(怪我や血行不良)がないにもかかわらず痛んだり痺れたりするというものだ。
本来痛みやしびれというものは、体のその部分に出血なり傷などがあり、
それに対してすぐに対処せよという意味での警告のパルスを脳が発信するのだ。
脳卒中などで損傷したの脳は、特に異常もないのに間違ったパルスを発信するためにその部位には、
何も異常がないにもかかわらず、痛みやしびれを感じるのである。

これが結構つらい。と言うかのたうちまわりたいほどつらいのである。

この感じは、傷の痛みでもなく、いわゆる血行不良で足がしびれたときのような感じでもない。
とにかく想像を絶する不快感です。表現としては、「苦しい」以外の何物でもない。

ところがこの中枢性疼痛、抗うつ剤で緩和するのだ。
あるいは未来に希望を持つことができ、心が高揚したとき緩和するだ。
つまり心の持ち方で物理的な痛みが変化するのだ。

こんな経験から、僕は脳=心であると実感しているです。

実際にアメリカでは、既に「心の想像」というものが、脳に痕跡を残すことが、実験で証明されている。
つまり実体のない想像という行為が、実体のある脳に痕跡を残すのである。
ということは心の動きは脳の動作であるといえるのである。

つまり死は脳死であるので死=心の消滅=魂の消滅ではないかと思っている。

だから人が死んだ後、魂だけが残り、「あの世」とかいうものに「召される」などということはなく
「無」になってしまうのだ。

こんなことから死=自我の消滅であるということから、世の中を認識することはできなくなる。
つまりは、自分が死ぬこと=世の中が消滅することではないかと思い至るようになっています。

「自分が存在するからこそ世の中が存在する」

「自分が存在しなくなったとたん、世の中は消滅する」

つまりは自分次第で、世の中は変わってしまうと言えないだろうか
そんな意味で「自分が中心」と感じるのである。

見方を変えれば、どんな世の中であっても自分の心の持ち方次第で苦しくもなり楽しくもなる
世の中のすべては、自分の心が見ている幻想のようなものではないかと思うのである。

そんなことからもあの高杉晋作が死ぬ直前に残した有名な時世の下以下のの一句は
人間の真髄を突いていると思うのである。

自分が世の中の中心!

僕はこの世の中は、自分の中心で動いていると以前から感じている。

それは利己主義という意味ではなく僕の世界観として自分が中心に存在すると感じている。

以前にも書きましたが僕は脳卒中という経験から魂というものの存在を信じなくなりました。

つまり「脳=心」であるということを実感しているからです。

デカルト以来、心身二元論(簡単に書きますと脳や体は機械のようなもので魂や心とは別物であり
心身に魂が宿ってこそ生命となるという考え方)が一般的な考え方として信じられてきました。

しかし実態のない魂が実体のある脳にどうやって作用するのかということについては、
長い間説明できないままでした。

「脳=心」ということを実感した理由のひとつとして下記の経験があります。

今回、脳の損傷に伴って左半身が運動麻痺したのと同時に、中枢性疼痛のという辛い痛みと痺れに
悩まされました。

この中枢性疼痛と言うのは麻痺した側の手足に特に異常(怪我や血行不良)がないにもかかわらず痛んだり痺れたりするというものだ。
本来痛みやしびれというものは、体のその部分に出血なり傷などがあったとき、それに対して「すぐに対処せよ!」という意味での警告のパルスを脳が発信するのだ。
脳卒中などで損傷したの脳は、特に異常もないのに間違ったパルスを発信するためにその部位には、何も異常がないにもかかわらず、痛みやしびれを感じるのである。
これが結構つらい。と言うかのたうちまわりたいほどつらいのである。
この感じは、傷の痛みでもなく、いわゆる血行不良で足がしびれたときのような感じでもない。
とにかく想像を絶する不快感です。表現としては、「苦しい」以外の何物でもない。

ところがこの中枢性疼痛、抗うつ剤で緩和するのだ。
あるいは未来に希望を持つことができ、心が高揚したとき緩和するだ。
つまり心の持ち方で物理的な痛みが変化するのだ。

こんな経験から、僕は脳=心であると実感しているです。

実際にアメリカでは、既に「心の想像」というものが、脳に痕跡を残すことが、実験で証明されている。
つまり実体のない想像という行為が、実体のある脳に痕跡を残すのである。
ということは心の動きは脳の動作であるといえるのである。

つまり死は脳死であるので死=心の消滅=魂の消滅ではないかと思っている。

だから人が死んだ後、魂だけが残り、「あの世」とかいうものに「召される」などということはなく
「無」になってしまうのだ。

こんなことから死=自我の消滅であるということから、世の中を認識することはできなくなる。
つまりは、自分が死ぬこと=世の中が消滅することではないかと思い至るようになっています。

「自分が存在するからこそ世の中が存在する」

「自分が存在しなくなったとたん、世の中は消滅する」

つまりは自分次第で、世の中は変わってしまうと言えないだろうか
そんな意味で「自分が中心」と感じるのである。

見方を変えれば、どんな世の中であっても自分の心の持ち方次第で苦しくもなり楽しくもなる
世の中のすべては、自分の心が見ている幻想のようなものではないかと思うのである。

そんなことからもあの高杉晋作が死ぬ直前に残した有名な以下の時世の句は人間の真髄を突いていると思うのである。

「おもしろきこともなき世におもしろく すみなすものは心なりけり」

だからこそ中庸の道を進み、生きているこの世の中をより有意義に面白く生きたいものである。