正義 納得 言葉 共感

何が正しくて何が正しくないのか。
世の中は人様々だと思う。
100人いればそこには100人分の正義ができるのではないか。
一般社会でも国際関係でもその立場、その立場での正義があると思う。
だからぶつかり合う。
絶対的正義など存在しないと思う。
中東情勢にしてもイスラエルイスラエルの正義が存在し、パレスチナパレスチナの正義が存在するのだろう。アルカイダアルカイダの正義があり、アメリカはの正義が存在し、中国には中国の正義が、そして
日本には日本の正義が存在する、地球には64億人分の正義が存在する。
そそれぞれに言い分があり、自分こそが正義だ思っている。
では分かり合えるにはどうすれば良いのだろう。
議論をつくし相手を説得することか
僕はそれも違うと感じています。

自分が正義だと言うことを主張する。そして相手を論破する
論理的な人間の方が議論に勝つ。でも議論に負けた方はそれで「納得」するだろうか。
正論で「説得」されたことと「納得」することは違うと思う。
説得されても「納得」していない、
つまり感情には不満が残っている状態ことが多々あるのではないだろうか。
だからと言って銀論を避けるべきではないとも思う。「
「納得」させるためには言葉しかないのだから、、
言葉を尽くして相手に訴えかけるしか方法はない。

最近思うことですが、このインターネット社会において、コミュニティが「炎上する」ということが
よくある。僕はこの原因は議論に参加した人間が言葉を尽くしていなかったことが原因だと感じます。

インターネット上でのコミュニケーション方法は文字情報しかない。これには限界があると僕は感じてます。


IT業界に身を置いていた関係上、メールによるコミュニケーショントラブル数多く見てきています。
文字によるコミュニケーションは相手の意図を五感で感じとることができないことが最大の問題だと思います。相手の表情、相手の声のトーン、相手の持っている雰囲気などがまったく伝わらない。

しかも最近のネット上での2CHやYahooの掲示板、ツイッターなどでの議論を見ていると、言葉の使い方が悪い人が非常に多いように感じます。基本的な議論方法を守っていない人が多いように感じます

特にいけないのが反対意見を書きながら、その実「相手の人格否定」をしているだけの発言をよく見かけます。自分の意見が通らないから相手の人格を罵倒するような発言も多く見かけます。

例えば「そんなことを知らないのか」とかいうような発言です。これは相手に対して「能力がない」という人格否定をしているのであって「反対意見」でも何でもないと思います。


どちらにしても言葉をつくしても、それぞれの持っている「自分の正論」はそう簡単に変わることは
ないと思う。議論の上でどちらかの論理性が高くて、一見片方が論破されたように見えても、
必ずしも論破された時点で「納得」しているとは言えないと思います。


「説得」してはいけない。「納得」と「共感」を使用してもらうよう最大限努力しなければならない

そう感じるのは、僕がまだ20代でとあるコンサルタント会社でコンサルタントをしていた時の苦い思い出があるあるからです。


僕はある会社のコンサルタントとして顧問をしてまいした。
あるとき社長に対して戦略の間違いを指摘(自分では柔らかい言葉で説得したつもりだった)して
僕が正しいと思う戦略を提案したときのことでした
その時社長は「
君のいうことは正しいと思う、でもやりません」
そう言われたのです。

僕は「正しいのにまなぜやらないのですか」と食い下がった。

その時社長は言った
「君のいうことはやりたくないからです」

そう言われてしまった。

今から考えると若造だと僕は、理論武装して社長「説得」してしまったのだろうと感じています。
その時の社長社長の心境は
「こんな若造これまでのワシの苦労した気持ちなんかわかってたまるか」
あるいは
「こんな若造に説得されてしまった。議論に負けてしまった」という屈辱感のようなものを感じさせてしまったのではないだろうかと思っています。
つまり相手のに対して「心情的理解」ができていなかったのだろうと思います。
僕は「議論勝って勝負に負けた」のだと思います.

そんな状況の時に必要なのは「熱意」しかないのではないだろうか。
最近思うこと..「モノは理で動くが人は熱で動く」そんな風に感じる。
若いころはそんなことは分からなかったのだろう。


当時は正しい事を言っているのに、しかも相手も正しいと認めているのに何故動かないのだ。
という理不尽さしか感じていなかった。

このことは今後インターネットがますます普及していくなかで十分気を付けなければならないと最近感じます。自戒の念も含めて・・


正論などというものははどこまでいっても「論」でしかない、「論」は反対意見がいくらでてきても新たな「論」で固めることができる。

その意味で「識者」などというものは、どこまでいっても「論者」でしかないと感じる
だから主義・主張などというものはどこまでいっても平行線なのだろう。
僕も「論」を述べる前に自分の思うことを「実践」しようと思う。
そして説得ではなく共感してもらえるように努力しよう。

「実践」するには辛い身体だけれども、できる限りフェイスtoフェイスのコミュニケーションができ、
現場の状況を肌や五感で感じることができるように現地まで行くように努力しよう。

そこから「共感」を持つことができ「絆」のようなものができてくれば、議論で負けても、
「勝ち」なのだろう