日本の職人の心に息づく武士道精神 そして無心の境地

新渡戸稲造はその著「武士道」の中で続けて次のように記している。
外国人旅行者は誰でも、日本人の礼儀正しさと品性のよいことに気づいている。
品性のよさをそこないたくない、という心配のもとに礼が実践されるとすれば、それは貧弱な徳行である。だが礼とは、他人の気持ちに対する思いやりを目に見える形で表現することである。
それは物事の道理を当然のこととして尊重するということである。

また、武士道精神は損得勘定をとらない。むしろ足らざることを誇りにする。とも言われる。

江戸時代から武道のなかで最も武士道の精神を必要とするといわれる武道は何かご存知でしょうか。
剣道、柔道、居合道などを思い浮かべる方が多いと思いますが、実は「弓道」なのだそうです。
なぜなら弓道にこそ、「無心」の境地が最も必要とされるそうです。

無心とは「私心なく無心になり没頭できる心」であるという。
これは非常に難しい心のコントロールであると思う。
すなわち無心でありたいと思った瞬間に無心ではなくなるというのである。
「無心でありたい」と思うこと自体が私欲だと言うのである。
弓道においては、「的を射たい」という心が産まれた瞬間にその「私欲」が発生し、
それが心を乱し、手元を狂わしてしまうそうである。

ただ、ただ弓を放つまでの正しい動作をすることに「没頭」することが必要であるという。
私欲は「怖れ」の原因である。私欲をなくし「没頭」できることが「神業」を生むという。
本当に「無心」になることができれば。暗闇でも的を射抜くことができるという。
これこそが日本の職人さんの「匠の技」つながっていると思う。

しかし残念ながら、現在の日本ではそのような職人さんも育成できる土壌がなくなっているように思う。
アメリカ的経済主義が入ってきて以来、それこそ「損得勘定」だらけである。
アメリカ的経済主義は、「私欲の塊」であると思う。
アメリカでは消費が美徳とされる。
人間の持つ限りない欲望を満たすことを追求した結果が2年前のリーマンブラザーズの破たんに繋がったと思う。

欲望こそが心のエネルギーの源泉であるという考え方もある。
私は経営コンサルタント会社で働いていたころ「高い欲求水準を持つことが大切である」と・・

「私欲」をなくすことが大切なのか、「高い欲求」を持つことが大切なのか。
僕の中ではまだ結論が出ない。


アメリカ人や中国人にとって「仕事」とは、あくまでも「MONEY」を獲得するための手段に過ぎないといわれる。
しかし日本人にとって仕事とはは仕事自体が自身の目的であり、生きがいにすることができる。
そこには損得勘定という「私心」はなく、無心で仕事に取り組む姿しかない。
そういう「無心」で取り込む姿勢こそが、神業的な手技だけではなく、すばらしい発想やアイデアの根元では
ないかと思う。
日本人のノーベル賞受賞者の多くが科学系である理由もそんなところになるのではないだろうか

振り返って自分を考えてみると、無心になりきれていない。

「健常者に戻りたい」とい私欲が自分を苦しめている。
リハビリで歩いてる時もそうである。「健常者のようにスムーズに歩きたい」と思った瞬間に、麻痺側に緊張が走り歩き方が崩れる。
いつか回復することを信じながら、粛々と無心でリハビリを続けることがなかなかできない。

「早く回復したい」「本当にいつか回復できるのだろうかという疑心暗鬼」こうい私欲が精神的に自分を苦しめているのだ。そのことは十分理解しているつもりだ。しかし「無心」になりきれない。

難しいな・・「無心」

煩悩を無くし涅槃の境地に入ることができれば、どんなに心が平穏でいられることだろう。
障害を負ってしまったことを、事実として受け入れ、今の自分にできることを、ただ、ただ
淡々と、粛々とできるようになりたいものである。
こういう気持ちも「私心」なのであろう。