脳卒中の後遺症という病


脳卒中の後遺症の難儀なことは、健常者にはわからないだろうが、朝起きたときから
闘いが始まる。いつ終わるとも知れない麻痺との闘いである。

東京大学名誉教授 多田富雄さんのエッセイは見事にその苦しさを表現している。。

以下は「苦しみが教えてくれたこと」東京大学名誉教授 多田富雄

病気など無縁だと思っていた私が、脳梗塞で右半身不随nになってから、まるで病気のデパートのようにいろいろな病気の巣になってしまった。
半身麻痺は、体が動かないだけではない。一日中筋肉の緊張が高まって、休んでいても楽ではない。いつも力を入れているようなものだ。それだけではない。私の後遺症には重度の嚥下障害、構音障害が重なっている。物が自由に食えない。水や流動物は飲めない。
食事は、私にとって最も苦痛な、危険を伴う儀式である。おかゆは何とか食べられるようになったが、油断すると激しくむせる。ご飯一粒でも気管に入ると肺炎になる危険がある。排除するための咳払いができないのだ。食後は必ず痰と咳に悩まされる。あまり苦しい時には、スポンジのブラシを喉に突っ込んで、強制的に咳を起こさせ、異物を排除する。でないと眠ることさえ出来ない。以前はどうしても咳を起こさせることが出来ず、この喉を切り裂いても痰を取りたいと、輾転反側する夜を送ったものである。構音障害は私から会話を奪ってしまった。発作から5年たつが、まだ満足に挨拶も出来ない。脳梗塞の発作の後、今まで何気なくやっていたこと、たとえば歩くことも、声を出すことも、飲んだり食べたりすることも突然出来なくなった。自分に何が起こったのか理解出来なかった。
声を失い、尋ねることも出来なかった。叫ぶことすら不可能な恐怖と絶望の中で、死ぬことばかり考えて日を過ごした。呻き声だけが、私に出来る自己表現だった。自死の方法を考えて毎日が過ぎた。今思えば危機一髪だった。でもこうして生きながらえると、もう死のことなど思わない。苦しみが既に日常のものとなっているから、黙って付き合わざるをえないのだ。
時には「ああ難儀なことよ」と落ち込むことがあるが、そんなことでくよくよしていても、何の役にも立たないことくらいわかっている。受苦ということは魂を成長させるが、気を許すと人格まで破壊される。私はそれを本能的に逃れるためにがんばっているのである。
病気と言う抵抗を持っているから、その抵抗に打ち勝った時の幸福感には格別のものがある。私の毎日は、そんな喜びと苦しみが混ざり合って、充実したものになっている。朝起きた瞬間から抵抗は始まる。硬い装具をつけてもらうと戦闘開始である。「おはよう。今日はうまく立ち上がれるか」と挨拶する。そして、鈍重な巨人のように、不器用に背を伸ばす。曲がった骨が痛くてよろけるが、こけると致命的である。緊張する。一日中、そんな戦いは続く。腰が痛くても、寝転んで休むわけにはいかない。装具を外さないと横にはなれない。装具を外すと、人出を借りないと起き上がれないし、トイレにも行けない。だから一日中、装具に縛られたままである。リハビリのない日は、パソコンを打ち続け、風呂に入るまで我慢する。おかげで夜はバタンと熟睡してしまう。
週3回のリハビリに通うと、暇な時間はない。ある意味では充実した毎日である。
そんな中で、私はいろいろな喜びを味わっている。私流「病牀六尺」である。
病という抵抗のおかげで、何かを達成して時の喜びはたとえようのないものである。初めて一歩歩けたときは、涙 がとまらなかったし、初めて左手でワープロを一字一字打って、エッセーを一編書きあげた時も喜びで体が震えた。
今日は「ぱ」の発音が出来たといっては喜び、カツサンド一切れが支障なく食べられたといっては感激する。なんでもないことが出来ない身だからこそ、それが出来た時はたとえようもなくうれしいのだ。
そうやって、些細なことに泣き笑いしていると、昔健康で、無意識に暮らしていた頃と比べて、今の方がもっと生きているという実感を持っていることに気づく。
身体についても新しい発見がある。たとえば頬の痒みを掻くと手が不随意に動く。あくびと同時に、麻痺した腕の筋肉が緊張する。猫のあくびと同じだ。いわゆる錐体外路系の神経が活動するからだろうか。
麻痺で不随意になっても、人間の運動系は一体になって動いていることが、実感としてわかる。こんなことも健康な時には気づかないで、何でも細分化すれば理解できると思っていた。医学を学んだ身として愚かなことだった。
これからも新しい病気は次々に顔を出すだろう。一度は静かになった癌だけれど、いつかは再発するだろう。でも、そのときはそのとき、どうせ一度は捨てた命ではないか。
あの発作直後の地獄を経験したのだから、どんな苦しみが待っていようと、耐えられぬはずはない。病を友にする毎日も、そう悪くないものである。
(2006年「文芸春秋」5月号)